貴様と太刀打ちをしてみたい、見《み》ん事《ごと》仇を取って見せる」
「駄目でございますよ、新手を入れ替えたところで、返り討ちにきまっておいでなさいますから、今宵のところはこの辺でお思い切りが肝腎でございますよ」
「どうしても融通ができぬか」
「冗談じゃございません、このうえ融通して上げたんじゃ、勝負事の冥利《みょうり》に尽きてしまいますからな」
「けれども貴様、それじゃ勝ち過ぎる」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が縦横無尽に場を荒すのを神尾主膳も忌々《いまいま》しがっていたが、一座の連中もみんな忌々しがっていました。主膳は堪り兼ねて、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、それでは抵当《かた》の品をやる、それによって融通しろ」
「よろしうございます、相当の抵当を下さるのに、それでも融通をして上げないと、左様な頑固なことは申しません。そうしてその抵当とおっしゃいますのは」
「この品だ」
神尾主膳は、青地錦の袋に入れた一振《ひとふり》の太刀を床の間から取り外しました。それは多分|伯耆《ほうき》の安綱の刀でありましょう。
神尾主膳は秘蔵の刀を当座の抵当に与えて、それで、がんりき[#「がんりき」に傍点]からいくらかの金を融通してもらいました。けれども不幸にしてその金もたちどころに、がんりき[#「がんりき」に傍点]に取られてしまいました。案の如く見事な返り討ちです。片手で自分の膝の前に堆《うずだか》くなっている場金《ばがね》を掻き集めながら、
「ナニ、今日はわっしどもの目が出る日なんでございます、殿様方の御運の悪い日なんでございます、殿様方がお弱いというわけでもございませんし、わっしどもがばかに強いというわけなんでもございません、勝負事は時の運なんでございますから、これでまた、わっしどもが裸になって、殿様方がお笑いになる日もあるんでございますから、わっしどもは決して愚痴は申しません」
場金を掻き集めて胴巻《どうまき》に入れてしまい、
「それからこの一品、どうやら、わっしどもには不似合いな品でございますが、せっかく殿様から抵当《かた》に下すった品でございますから、持って帰って大切にお預かり申して置きます……」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、ちょっと待ってくれ」
神尾主膳が言葉をかけました。
「何か御用でございますか」
「その刀は置いて行ってもらいたい」
「よろしうございますとも、抵当にお預かり致したものでございますから……」
「知っての通り、今、その方に支払うべき持合せがない、明日までには都合致すが、その一振は家の宝じゃ、そちに抵当に遣わすと言ったのも一時の座興、手放せぬ品じゃ、置いて行ってもらいたい」
「これは恐れ入りました、その手で、いままで殿様にはずいぶん御奉公を致しておりまする、今晩もまた一時の座興なんぞとおっしゃられてしまっては、友達の野郎に対しても、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》が立ちません、殿様の御都合のよろしい時まで、この刀は確かにお預かり申し上げました」
片手で青地錦に入れた一振を取っておしいただき、
「皆様、御免下さりませ」
お辞儀をして、さっさと立ってしまいました。
神尾主膳はじめ一座の者は、険《けわ》しい眼をしてその後ろ影を見送るばかりで、さすがに身分柄、手荒いことも出来ません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は神尾の屋敷を出た時に、青地錦の袋に入れた刀を背負っていました。
上弦の月が中空にかかっているのを後ろにして、スタスタと歩き出すと、
「もし百さん」
と言って塀の蔭から出たのは、女の姿であります。
「誰だい」
「わたしだよ」
「お角か」
「あい」
「何しにそんなところへ来てるんだ」
「お前さんが来るのを待っていたのだよ」
「家に待ってりゃあいいじゃないか」
「そうしていられないから出て来たんじゃないか」
傍へ寄って来たのは、女軽業の親方のお角であります。
「どうしたのだ」
「どうしたのじゃない、お前、またこのお邸へ入り込んだね」
「入っちゃ悪いか」
「悪いとも……だけれど、今はそんなことを言っていられる場合じゃない、手が入ったよお前。手が入ったから、あすこにはいられない、あすこへ帰ることもできない」
「そうか」
「これからどうするつもり」
「どうしようたって、どうかしなくちゃあ仕方がねえ、やっぱり逃げるんだな」
「どこへ逃げるの、わたしだって着のみ着のままで、ここまで抜けて来たのだから」
「だから、俺は俺で勝手に逃げるから、お前はお前で勝手に逃げろ」
「そんなことを言ったって……」
「まあ、こっちへ来ねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、お角を塀の蔭へ連れて来て、
「幸い、今夜はこっちの目と出て、これこの通りだ。山分けにして半分はお前にくれてやるから、こいつを持ってどこへでも行きねえ」
「そうしてお前は?」
「俺は俺で、臨機応変とやらかす」
「そんなことを言わないで、一緒に連れて逃げておくれ」
「そいつはいけねえ、おたげえのために悪い」
「お為ごかしを言っておいて、お前はこのお邸のお部屋様のところへでも入浸《いりびた》るんだろう」
「馬鹿、そんなことを言ってられる場合じゃあるめえ」
「それを思うと、わたしは口惜《くや》しい」
「何を言ってるんだ」
「もしお前がそんなことをしようものなら、わたしはわたしで持前《もちまえ》を出して、折助でもなんでも相手に手あたり次第に食っつき散らかして、お前の男を潰《つぶ》してやるからいい、このお金だってお前、あの後家さんだかお部屋様だかわからない女の手から捲き上げて来たお金なんだろう」
「そんなことがあるものか」
「そうにきまっている、そんならちょうど面白いや、あの女から貢《みつ》いだ金をわたしの手で使ってやるのがかえって気持がいい、みんなおよこし」
「持って行きねえ」
「もう無いのかい」
「それっきりだ」
「その背中に背負《しょ》っているのは、そりゃ何?」
「こりゃ脇差だ、これも欲しけりゃくれてやろうか」
「そんな物は要らない」
「さあ、それだけくれてやったら文句はあるめえ、早く行っちまえ、こうしているのが危ねえ」
「それでも……」
「まだ何か不足があるのかい」
この時、二人の方へ人が近づいて来ます。がんりき[#「がんりき」に傍点]とお角は離れ離れに、塀の側と辻燈籠《つじどうろう》の蔭へ身を忍ばせようとした時、
「何をしやがるんだい」
やにわにがんりき[#「がんりき」に傍点]に組みついて来たものがあります。
それと見たお角は、前後の思慮もなくその場へ飛びかかりました。
「貴様は――」
覆面の侍の後ろから飛びかかったお角は、直ちに突き倒されてしまいました。
「神尾の廻し者だろう、大方、そう来るだろうと思っていた」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は片手を後ろへ廻して、侍の髱《たぼ》を掴んで力任せに小手投げを打とうとしました。侍はその手を抑えて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が差置いた青地錦の袋入りの刀を取ろうとしました。
「それをやってたまるものか」
片腕のがんりき[#「がんりき」に傍点]は両手の利く侍よりも喧嘩が上手でありました。侍の腰がきまらないところを一押し押して振り飛ばすと、覆面の侍は前へのめってしまいました。
「ざまあ見やがれ」
いつしかその後ろから、また一人の覆面の侍が出て来て、
「どっこい」
と組みつきました。
「まだいやがる」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれと組打ちをはじめる。その隙《すき》に前にのめっ[#「のめっ」に傍点]た覆面は起き上りながら、その袋入りの刀を奪い取ろうとする。
「いけない」
と言って、ほぼ一緒に起き返ったお角が、その侍の手に持った刀へ噛《かじ》りつきました。
「この女、小癪《こしゃく》な奴」
「泥棒、泥棒」
お角はこう言って大声を立てようとした、その口を侍が押える。お角は必死になったけれど男の力には敵《かな》わない。
「この野郎」
喧嘩にかけて敏捷ながんりき[#「がんりき」に傍点]は、足を掬《すく》って組みついていた方の覆面の侍を打倒《ぶったお》して、今お角を蹴倒して刀を持って逃げようとする侍の行手に立ちはだかる。
「お角、だまっていねえ、泥棒泥棒なんて言っちゃあいけねえ」
と言いながら、持って逃げようとする袋入りの刀を、また引ったくろうとする。前に投げ倒されたのがまた起き直る。蹴倒されたお角がじっとしてはいない。
この四個《よっつ》の人影がここで組んずほぐれつ大格闘をはじめてしまいました。争うところはその袋入りの刀にあるらしい。
お角は何だかわからないけれども、がんりき[#「がんりき」に傍点]の危急と見て格闘の仲間入りをしました。女だてらに負けてはいないで、武者振りついていました。
「あッ」
という声でお角は慄え上りました。
「百さん、どうおしだえ」
お角は我を忘れてがんりき[#「がんりき」に傍点]を呼ぶ途端に、一人の覆面のために烈しく地上へ投げ出され、その拍子に路傍の石で脾腹《ひばら》を打ってウンと気絶してしまったから、その後のことは何とも分りません。
それからどのくらい経ったのか知れないが、お角は介抱される人があって呼び醒《さ》まされた時に、気がついて見れば、やはり覆面の侍が傍にいました。
しかし、同じ覆面の侍でも今度の侍は、前の覆面の侍とは確かに相違していることがわかります。人品も相違しているし、風采《ふうさい》も相違していることがわかります。
「お女中、気を確かにお持ちなさい、お怪我はないか」
と背を撫でているのは、その人品骨柄《じんぴんこつがら》のよい覆面の侍ではなくて、その若党とも覚《おぼ》しき覆面をしない侍でありました。
「はい、有難う存じまする、別に怪我はござりませぬ」
お角はすぐにお礼と返事とをしました。
「何しろ危ねえことでございます、血がこんなに流れているから、わっしどもはまた、お前様がここに殺されていなさるとばかり思った」
気味悪そうに提灯を突き出して四方《あたり》を見廻しているのは、やはりこの人品骨柄のよい覆面の侍のお伴《とも》をして来た草履取《ぞうりとり》の類《たぐい》であろうと見えます。
「血が流れていて人が殺されていないから不思議。お女中、そなたはいずれの、何という者」
「いいえ、あの……」
「包まず申すがよい」
「あの、わたくしは……」
お角は問い糺《ただ》されて、おのずから口籠《くちごも》ります。その口籠るので、若党、草履取はお角にようやく不審の疑いをかけると、
「これには何ぞ仔細があるらしい、ともかく屋敷へ同道致すがよかろう」
と言ったのは、人品骨柄のよい覆面の武家でありました。その声を聞くと爽《さわや》かな、まだお年の若いお方と思われるのみならず、その声になんとやら聞覚えがあるらしく思われるが、お角は急には思い出されません。
「いいえ、わたくしはここで失礼を致します、もうあの、大丈夫でございますから」
と言って、やみくもに袖を振切って駈け出してしまいます。
一行の人はその挙動を呆気《あっけ》に取られて見ていたが、別に追蒐《おいか》ける模様もなく、屋敷へ帰ってしまいました。
その屋敷というのは駒井能登守の屋敷であって、覆面の品のよい武家は主人の能登守でありました。
このことについて、その翌日、何か風聞が起るだろうと思ったら、更に起りませんでした。あの附近を通った者が、血の痕《あと》のあることをさえ気がつかずにしまいました。恐らく昨夜のうちに、それを掃除してしまったものがあるのでありましょう。その場のことはそれだけで過ぎてしまいました。
十二
甲府の市中にもこのごろは辻斬の噂が暫く絶え、御老中が見えるという噂も、どうやら立消えになったようであります。それで甲府の内外の人気もどうやら気抜けがしたようであったところに、はしなく士民の間に火を放《つ》けたような熱度で歓迎される催しが一つ起りました。その催しというのは、府中の八幡宮の社前で、盛大なる流鏑馬《やぶさめ
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