た。お松の耳に入ったいろいろの噂は、破牢者のうちの無宿者の一隊は、どうやら山を越えて秩父の方へ逃げたものと、信濃路へ向ったものとがあるらしいということのほかに、その主謀者と見做《みな》されるものは、どうしてもこの市中に潜伏していなければならないということでありました。主謀者とは誰ぞ、宇津木兵馬はその人ではあるまいけれど、その人に荷担《かたん》した時はその人と責任を共にする人であるとは、お松も想像しないわけにはゆきません。
してみれば、兵馬さんはこの甲府の市中のいずれかに隠れている。どこに隠れているだろう。果して隠れ了《おお》せてこの地を逃げ延びることができればそれは結構であるけれど、もうその評判がお松の耳にまで聞えるようになっては、この狭い天地でさえも危ない――とお松はそれを考えると、剣《つるぎ》の刃を渡るようにハラハラしました。
「お松ちゃん、お松ちゃん」
窓の戸をトントンと叩いて、わが名を忍びやかに呼ぶ者のあるのは覚えのある声で、お松にとっては必ずしも寝耳に水ではありません。
「はい」
窓の戸を開きますと、そこから首を出したのは七兵衛でありました。
「おじ様」
「お松、ちょっ
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