主膳の屋敷を行先のように出鱈目《でたらめ》に言ってしまったことです。
「神尾主膳殿へ?」
と言って辻番は、ややけねんを持つように、お銀様を見廻していたが、
「よろしい、通らっしゃい。しかし、このごろは市中が物騒でござることをそなたはまだ知らぬと見えるな。物騒というのはほかではない、よく人が斬られる、辻斬が流行《はや》るから宵のうちさえ人の通りは甚だ少ない、知らぬこととはいえこの深夜、一人で、まして女の身で、このあたりを歩くというは危険千万じゃ」
「有難うございます」
 辻番に通らっしゃいと言われたから、お銀様はそこを通り過ぎてしまうと、飯田新町の通りであります。
 いま、辻番から言われたこともお銀様は、もう忘れてしまいました。甲府のこのごろの物騒なことも有野村あたりまで聞えていないのではなかったけれど、お銀様の耳へはそれがまだ入っていませんでした。さて、甲府の町へ入るには入ったけれど、どこへ行こうという当《あて》はありません。神尾主膳の邸と言ったのはもとより出鱈目《でたらめ》ですけれども、うすうす心のうちでお銀様が心当てにして来たのは、それは役割の市五郎の家でした。
 役割の市五郎を訪
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