、この座敷には狐格子《きつねごうし》の丈夫な障子がまた一枚あります。その格子戸を立て切ると竜之助は、二箇所ほどピンと錠をおろしてしまいました。
なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。
そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。
お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に更《ふ》けてゆくばかりです。
夜中にお銀様は物におびやかされて、
「あれ、幸内が」
と言って飛び上りました。
やはり転寝《うたたね》の形であった竜之助はその声で覚めると、その見えない眼にパッと鬼火が燃えました。
「幸内が……」
お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か幻《まぼろし》を見ました。幸内の形をした幻に驚かされました。
机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。
竜之助を襲い来《きた》ったものは神尾主膳ではありません。宇津木兵馬でもありません。
前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。
蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には判然《はっきり》として現われました。
お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の行方《ゆくえ》を凝《じっ》と見ていました。雄蝶と雌蝶とは上になり下になって長持の中から舞い出でました。やや上ってまた下りました。その二つは戯《たわむ》れているのではなく、食い合っているのでありました。
非常に恐ろしい形相《ぎょうそう》をして雌蝶と雄蝶が噛《か》み合いながら室内を、上になり下になって狂い廻るのでありました。
「ああ、幸内がかわいそう……」
とお銀様が慄《ふる》え上るその頭髪《かみ》の上で、二つの蝶が食い合っていました。竜之助には、いよいよ判然《はっきり》とその蝶が透通《すきとお》るように見えるのであります。蝶の噛み合う歯の音まで歴々《ありあり》と聞えるのであります。
「ああ、幸内がここへ来た」
お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。
この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の幻《まぼろし》のために一夜を眠ることができませんでした。
夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。
六
神尾主膳が躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。
出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから跟《つ》いて行った米友とだけです。
「米友」
能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
米友は上眼使いに能登守の面《かお》を見上げて、無愛想な返事です。
「大儀であったな」
「ナーニ」
米友は眼を外《そ》らして横を向いて、能登守の労《ねぎら》う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗《のぞ》き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇《ものずき》でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇《ものずき》も大概にあそば
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