しかし、それを離れて後ろから跟《つ》いて行く神尾主膳の姿などを想像にも思い浮べることのなかったのは、幸いとは言えません。
 ようやく甲府の町へ入ろうとする時分に辻番がありました。荒川を渡って元の陣屋跡のところに、このごろ臨時に辻番が設けられました。
「これこれ、どこへ行かっしゃる」
 辻番の中で六尺棒を持った屈強な足軽が、通りかかるお銀様を呼び留めました。
「はい」
と言ってお銀様はたちどまりました。
「待たっしゃい」
 辻番は、お銀様の頭巾の上から足の爪先まで見据えていましたが、
「見れば女子《おなご》の一人道、どちらからおいででござる」
「有野村から参りました」
「有野村は何の何某《なにがし》という者でござる」
「はい……藤原の伊太夫の家から……召使の君と申しまする」
「有野村の藤原家の召使? それが一人でこの夜分」
「主人の内密《ないしょ》の使でよんどころなく……こんなに遅くなりました」
「はて、そうしてどこへ行かっしゃるのじゃ」
「それは……御城内の神尾主膳様のお屋敷まで」
 お銀様は、ここで二つのこしらえごとを言ってしまいました。自分がお君の名を仮《か》りたことと、神尾主膳の屋敷を行先のように出鱈目《でたらめ》に言ってしまったことです。
「神尾主膳殿へ?」
と言って辻番は、ややけねんを持つように、お銀様を見廻していたが、
「よろしい、通らっしゃい。しかし、このごろは市中が物騒でござることをそなたはまだ知らぬと見えるな。物騒というのはほかではない、よく人が斬られる、辻斬が流行《はや》るから宵のうちさえ人の通りは甚だ少ない、知らぬこととはいえこの深夜、一人で、まして女の身で、このあたりを歩くというは危険千万じゃ」
「有難うございます」
 辻番に通らっしゃいと言われたから、お銀様はそこを通り過ぎてしまうと、飯田新町の通りであります。
 いま、辻番から言われたこともお銀様は、もう忘れてしまいました。甲府のこのごろの物騒なことも有野村あたりまで聞えていないのではなかったけれど、お銀様の耳へはそれがまだ入っていませんでした。さて、甲府の町へ入るには入ったけれど、どこへ行こうという当《あて》はありません。神尾主膳の邸と言ったのはもとより出鱈目《でたらめ》ですけれども、うすうす心のうちでお銀様が心当てにして来たのは、それは役割の市五郎の家でした。
 役割の市五郎を訪ねることに心をきめたお銀様が、案内を知った甲府の町の道筋をお城の方へと歩いて行くと、子供の泣き声が聞えました。
 その子供の泣き声がいかにも物悲しそうに聞えて来ました。、弱い帛《きぬ》を長く裂いてゆくように泣き続けて、やがて咽《むせ》び入《い》るようになって消えたかと思うと、また物悲しそうに泣く音《ね》を立てて欷歔《しゃく》り上げる泣き声が、いじらしくてたまらなく聞えます。
 お銀様は、どこからともなくその物悲しい子供の泣き声を聞いた時にはじめて、もう夜も大分ふけていることに気がつきました。気がついて立ったところのすぐ眼の前に、こんもりと一叢《ひとむら》の森があることを知りました。右の方は城内へつづくお武家屋敷があることを知りました。眼の前の森は穴切明神の森であることも、甲府の地理に暗くないお銀様には直ぐに合点がいったのです。その明神も見えるし、その森蔭にはお小人屋敷《こびとやしき》なんぞもあるのですから、闇の晩とはいえ、それを見極めることになんの手数も要《い》らないわけであります。
 甲斐の国、甲府の土地は、大古《おおむかし》は一面の湖水であったということです。冷たい水が漫々と張り切って鏡のようになっていると、そこへ富士の山が面《かお》を出しては朝な夕なの水鏡をするのでありました。富士の山の水鏡のためには恰好《かっこう》でありましょうとも、水さえなければ人間も住まわれよう、畑も出来ようものをと、例の地蔵菩薩がお慈悲心からある時、二人の神様をお呼びになって、
「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」
と御相談になると、そのうちの一人の神様が、
「それは結構なお思いつきでござる、なんとかひとつ拙者が工夫してみましょう」
と言って、四辺《あたり》の地勢を見廻していたが、やがて前の方の山の端の薄いところを、
「エイ」
と言って蹴飛ばすと、その山の端の一角が蹴破られてしまいました。それを見るより、もう一人の神様が立ち上って、
「よしよし、あとは拙者が引受けてなんとかしよう」
と言って、いま蹴破られた山の端へ穴をあけて、そこへ一条の水路を開いたから、見ているうちに漫々たる大湖水の水が富士川へ流れて落ちました。
 それを遠くの方で見ていた不動様が、
「乃公《おれ》も引込んではおられぬわい」
と言って、川の瀬をよく均《なら》して水の
前へ 次へ
全52ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング