はあんまりだから、わたしが月代を剃って上げたいけれど、今はそんなことをしてはいられない。甲府へ行ったら、わたしは人を頼んでお前を迎えによこすから、わたしも附いて来るから、その時になってお父様がなんと言ったって、わたしは帰りゃしない、お前も帰さない。この家には、わたしがいない方がいいのだから、わたしがいなくなればみんな手を拍《う》って喜ぶのだから、わたしがいないので、いなくなるので、それだから、わたしは……」
お銀様は、畳の上へこぼした小判の包みが手に触《さわ》らないのであります。やっと拾ってまた懐中へ入れるとまたこぼれます。お銀様はとうとう、その幾つかの小判の包みのうち一つを取落したままで、行燈《あんどん》の火を細めて外へ出ました。
外は昨晩のように深い靄《もや》はありませんでしたけれども、闇夜《やみよ》であることは昨晩と少しも変りはありません。
お銀様が父と言い争っている時分から、この家の縁先の網代垣《あじろがき》の下に黒い人影が一つ蹲《うずく》まっていて、父子《おやこ》の物争いを逐一《ちくいち》聞いていたようです。
伊太夫が怒って足音荒く立退いてしまった時分に、そろそろと縁先へ忍び寄って戸の隙間から、お銀様の挙動を覗《のぞ》いているようでありました。抱えるようにしていたけれど、両刀の鐺《こじり》は羽織の下から外《はず》れて見えています。
お銀様が今、戸をあけて外へ出ようとした時に、この怪しい人影は、また前のところへ立退いて蹲まっていました。お銀様がどこともなく闇の中へ消えてしまった時分に、またその怪しの人影はそろそろ網代垣の下から身を延ばして、以前の通り縁先へ忍び寄り、それから雨戸へ手をかけました。お銀様のいま立てきったばかりの戸の裏には鍵をしてありません。それですから別段に音も立てずに一尺ばかり開くことができると、直ぐに中へ入ってしまいました。
なんの苦もなく障子を開いて座敷へ入った姿を見れば、紛《まぎ》れもなくひとりの武士です。それも小身の侍や足軽ではなく、多少の身分ありそうな武士です。多少の身分のありそうな武士が、こんな挙動をして人の家に忍び入るのは似合わしからぬことであります。けれども似合わしからぬことを敢てせねばならぬほどの危急に迫られたればこそ、こうして忍んで来たものと思わなければなりません。お銀様が細目にして行った行燈《あんどん》の傍へ行ってそれを掻《か》き立てた時に、頭巾から洩れる面体《めんてい》をうかがえば、それが神尾主膳であったことは、意外のようで意外でありますまい。
主膳はソロソロと昏睡《こんすい》している幸内の枕許へ寄って来て、その寝顔を暫らくのあいだ見ていました。そうしてニッとして残忍な笑い方をしましたが、背中を行燈の方に向けて、幸内の枕許へ立ちはだかるようにしてしまったから、何をするのだか挙動が少しもわからないが、ただ懐《ふところ》から縄を出して扱《しご》くような素振《そぶり》をしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が、
「ウーン」
とうなり出したのを、主膳はその頭の上から蒲団《ふとん》を被せて抑えましたから、幸内のうなる声は圧《お》し殺されたように絶えてしまいました。
それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、
「あっ」
と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ鬼蜘蛛《おにぐも》のような血の塊《かたまり》がポタリポタリと落ちている。
「ああ鼻血か」
主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の懐中《ふところ》へ入れて畳紙《たとう》を取り出して面に当てました。いま主膳を驚かしたその血の塊は、外《よそ》から出たのではありません、自分の鼻から出た鼻血でありました。けれども紙で拭いたその血を行燈の光で見ると夥《おびただ》しいもので、黒く固まってドロドロして、しかもそれが一帖の畳紙《たとう》を打通《ぶっとお》して染《し》みるほどに押出して、まだ止まらないのです。
神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を脱《ぬ》け出しました。
二
お銀様がこの夜中に家を脱け出したのは、あまりと言えば無謀です。けれどもそれが無謀だか有謀だかわかるくらいならば、家を脱け出すようなことはしますまい。ともかくも、こうしてお銀様は無事に屋敷を脱け出し、有野村を離れて甲府をさして闇の中をヒタ歩きに歩きました。その途中、無事であったことは幸いです
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