神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。
「お銀どの、お銀どの」
 二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。
「お銀どの、お銀どの」
 例の刀を持ちながら広い梯子段を、覚束《おぼつか》ない足どりで二段三段と降りはじめました。
「はい」
 この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、面《かお》は恥かしそうに俯向《うつむ》いて、両袖を胸の前へ合せていました。
「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」
 その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境いがないほどになっていました。
「ちと、そなたに見せたいものがある、そなたでなければ見ても詰らぬもの、見せても詰らぬものじゃ。さあ、遠慮することはない、こちらへおいであれ」
 主膳は手を伸ばしてお銀様の手をとろうとしました。お銀様はさすがに遠慮するのを、神尾は無理に右の手で、お銀様の手を取りました。左の手には例の梨子地の鞘の長い刀を持っていました。
「そんなにしていただいては、恐れ多いことでございます」
 お銀様が遠慮をするのを、主膳は用捨《ようしゃ》なくグイグイと引張ります。お銀様はしょうことなしにその梯子段を引き上げられて行くのであります。
 引き上げられて行くうちに、爛酔《らんすい》した神尾主膳が、その酔眼をじっと据えて自分の面《かお》を見下ろしているのとぶっつかって、お銀様はゾッと怖ろしくなりました。
 お銀様はこの時まで、まだ神尾について何事も知りません。知っていることは、その仲媒口《なこうどぐち》によっての誇張された神尾家の噂《うわさ》のみでありました。何千石かの旗本の家であったということと、まだ若いということと、多少は放蕩をしたけれど放蕩をしたおかげで、人間が解《わか》りが
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