膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向《あつらえむ》きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。
「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が醒《さ》めてから呼ぶとしよう」
主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。
主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が梯子《はしご》から首を出して怖《おそ》る怖る御用を伺いに来るのみであります。
「あの男は、まだ眼が覚めないか、起しに行ってやろうかな、しかし炬燵《こたつ》へ入ってああして熟睡しているところを叩き起すも気の毒じゃ、疲れて昼は休んでいる」
主膳があの男というのは、ここの屋敷に籠《こも》っているはずの机竜之助のことでありましょう。竜之助を相手に雪見をしようと思って来たところが、その竜之助はいま眠っているものと見えます。
主膳はこんな独言《ひとりごと》を言っているうちに、立てつづけに呷《あお》りました。浴びるように飲みました。気がようやく荒くなりました。
「うむ、うむ、この刀、この刀」
と言って主膳は、やや遠く離して置いてあった例の梨子地の鞘の長い刀の下《さ》げ緒《お》を手繰《たぐ》って身近く引寄せて、鞘の鐺《こじり》をトンと畳へ突き立てて、朧銀《ろうぎん》に高彫《たかぼり》した松に鷹の縁頭《ふちがしら》のあたりに眼を据えました。
「この刀を試《ため》すことをいやがる机竜之助の気が知れぬ、と言って拙者の腕で試してみようという気にもならぬ」
その途端になんと思ったのか、神尾主膳の眼中が遽《にわ》かに血走って、
「お銀、お銀、お銀どの」
声高く、そうして物狂わしく呼びつづけました。
前へ
次へ
全104ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング