あったろうし、外はこの雪でもあるし、こうして寝かしておけばいつまで寝ているかわかりません。その神尾主膳が急に朝寝の夢を破られたのは、能登守の一行がその屋敷を出るとほとんど同時でありました。取次の言葉を聞いてこの無精者《ぶしょうもの》がガバと刎《は》ね起きたところを見ると、それは主膳の耳にかなりの大事と響いたものと見えます。
「よし、早速ここへ通せ」
 起き上らないうちからこう言ったところを見ても、いよいよ大事の注進を齎《もたら》したものがあることはたしかです。
 まもなく、主膳の寝間へ通されたものは役割の市五郎でした。
「神尾の殿様、逃げました、逃げました、いよいよ逃げ出しましたよ」
「どっちへ逃げた」
「代官町から荒川の筋、たしかに身延街道でございましょう。野郎共を三人ばかり、後を追っかけさせておきましたから、行方《ゆくえ》を突留める分にはなんでもございませんが、いざという時、野郎共では……」
「よし、後詰《ごづめ》はこちらでする。市五郎、其方《そのほう》大儀でも分部《わけべ》、山口、池野、増田へ沙汰をしてくれ、急いで鷹狩《たかがり》を催すと言ってここへ集まるように。表面《うわべ》は鷹狩だがこの鷹狩は火事よりせわしい」
「委細、承知致しました、それでは御免」
 市五郎はそこそこに辞して出かけました。それから後の神尾主膳の挙動は気忙しいもので、面《かお》を洗う、着物を着替える、家来を呼ぶ、配下の同心と小人《こびと》とを呼びにやる、女中を叱る、小者《こもの》を罵る。主膳がやっと衣服を改めてしまった時分に、この屋敷の門内へは、もう多くの人が集まりました。
「おお、おのおの方、大儀大儀、市五郎からお聞きでもござろう、近ごろ珍らしい鷹狩、獲物《えもの》に手ごたえがありそうじゃ」
「神尾殿の仰せの通り、近頃の雪見、それゆえ取る物も取り敢えず馳せつけて参った」
「さあ、同勢揃うたら、一刻も早く」
「かけ鳥の落ちて行く先は身延街道」
 なるほど鷹狩には違いなかろうが、鷹狩にしては、あんまり慌《あわただ》しい鷹狩であります。これらの同勢十八人は、雪を蹴立てて驀然《まっしぐら》に代官町の通りから荒川筋、身延街道をめがけて飛んで行きました。
 神尾主膳だけは残って、彼等の出て行く後ろ影を見送っていましたが、
「酒だ、前祝いの雪見酒」
 神尾主膳はそれから酒を飲みはじめたが、雪見の酒より
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