ようやくかたことを言えるくらいの男の子。お銀様はその子を固く抱いて頬ずりをしました。
その時に、お銀様の鼻に触れたのは紛《ぷん》として腥《なまぐ》さい、いやないやな臭いであります。お銀様はその臭いが何の臭いだか知りませんでしたけれど、むっと咽《む》せかえるようになって、我知らず二足三足歩いて見ると、そこの地上にまた一つ、物の影があるのであります。
「人が倒れている」
お銀様はまさしくそこに倒れている人を見ました。その人が尋常に倒れているものでないことを直ぐに感づきました。怪我で倒れたのでもなし、病気で倒れたのでもないことに気がつきました。
「ああ、どうしよう、人が斬られている、殺されている!」
天地が遽《にわ》かに暗くなって――暗いのは最初からのことだが、この時は腹の中まで暗くなりました。前後左右四方上下から、真黒な大鉄壁を以て、ひたひたと押えつけられるような心持になって眼がくらくらと眩《くら》んでしまいました。
けれども胸に抱いた子は、いよいよ固く抱いておりました。
幼な子を抱いて闇の中に立っていたお銀様の肩を、後ろから軽く叩いたものがあります。
「もし」
お銀様は愕然《がくぜん》として我にかえりました。我にかえると共に慄え上りました。
「どなた」
お銀様の歯の根が合いませんでした。そこに頭巾《ずきん》を被《かぶ》って袴《はかま》を穿《は》いて立っているのは武士の姿であります。
「驚き召さるな、拙者は通りかかりの者……してそなたは?」
存外、物優《ものやさ》しい声でありました。
「わたくしも通りかかりの……」
お銀様は辛《かろ》うじてこう言いました。
「この場の有様は、こりゃ………」
武士もまた、さすがにこの場の無惨《むざん》な有様に、悸《ぎょっ》として突立ったきりでありました。
「そこに誰か斬られているのでござりまする、そうしてこの子供がここに投げ出されておりました」
「また殺《や》られたか」
「どう致しましょう」
この時、武士はさのみ狼狽《ろうばい》しないで、
「もしや、そなたは有野村の藤原家の御息女ではござらぬか」
と聞かれてお銀様は狼狽しました。
「左様におっしゃる、あなた様は?」
「拙者は神尾主膳でござる」
「神尾主膳様?」
「伊太夫殿の御息女に違いないか」
「はい」
お銀様は神尾主膳の名を聞いて一時に恥かしくなりました。主膳はお
前へ
次へ
全104ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング