であるのみならず、その冷淡の底には深い恨みを懐《いだ》いて、深い恨みは強い呪《のろ》いとなって能登守とお君との上に濺《そそ》がれているのでありました。前には一種の僻《ひが》んだ嫉妬《しっと》でありました。今は骨髄に刻むほどの怨恨《えんこん》となっているのであります。せっかく運びかけた神尾家との縁談を、途中で故障を入れたのはあの能登守だという恨みは、お銀様の肉と骨とに食い入る口惜しさでありました。お銀様に向ってのすべての報告はみんな、この口惜しさを能登守とお君とに濺ぐように出来ておりました。なぜならば、支配の上席なる筑前様でさえも御承諾になっているものを、能登守がひとり、旗本の女房は同族か或いは大名でなければ身分違いだと言い立てたために、事が運ばないのだということに一致するからであります。
今時《いまどき》、そんなことはどうにでもなるのである。よしどうにでもならないにしたところで、自分の家の家柄はそれに恥かしいような家柄ではないものを、それを能登守から見下げられたということが、お銀様は腹が立ってたまりませんでした。
その上、そんなよけいな故障を言い立てた能登守自身はどうであろう、あのお君を可愛がって、うつつを抜かしているではないか。お君という女は言わば旅の風来者《ふうらいもの》で、氏《うじ》も素性《すじょう》も知れない女ではないか。自分ではその氏も素性も知れない女を可愛がって勝手な真似をしながら、人の縁談に鹿爪《しかつめ》らしいことを言って故障を入れる、その心が憎らしいではないか。それにはきっと、お君が傍からよけいな入知恵をしているであろうとの邪推で、二人の憎らしさがいよいよ骨身に食い入って行くのであります。
「ねえ、幸内や、早く癒《なお》っておくれ、わたしはお前から聞いてみなければわからない、わたしもまたお前に聞いてもらわなければならないことがある」
その晩、お銀様の居間へ丸頭巾《まるずきん》を被《かぶ》った父の伊太夫がやって来て、何か言っているようでありましたが、やがてその言葉がいつもよりも荒く聞えました。お銀様もそれに答えて二言三言《ふたことみこと》なにか言いましたが、その声がやがて泣き声になってしまいました。
いつもの場合においては、お銀様が泣き声を出す時には、父の伊太夫の方で折れるのが例でありましたけれど、その晩はそうではありませんでした。
「お前
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