大菩薩峠
お銀様の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)靄《もや》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)お前|月代《さかやき》が生えているね。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》らせ
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         一

 夜が明けると共に靄《もや》も霽《は》れてしまいました。天気も申し分のないよい天気であります。幸内は能登守の屋敷から有野村の伊太夫の家へ迎えられることになりました。
 有野村へ迎えられて幸内が、その今までの経過をすっかり物語りさえすれば、万事は解釈されるのでした。神尾主膳の残忍さ加減と、その屋敷にいる盲剣客《めくらけんかく》の一種異様なる挙動とが、幸内の口から明らかになりさえすれば、それを聞く人々は或いは仰天し、或いは戦慄しながら、事の仔細を了解するはずでありました。けれども不幸にして、送り返された幸内なるものは、ただ送り返されたという名前だけに過ぎません。まだ屍骸《しがい》というには早いけれども、とても生きた者として受取ることはできないほどであります。
 幸内は口が利《き》けないのみならず、手も利きませんでした。手が利かないのみならず、身体が利きませんでした。それらのすべての機関が働かないにしても、眼だけでも動けば、多少ものを言うのであろうけれど、その眼も昏々《こんこん》として眠ったままでいるのであります。ただ動いているのは、微かなる脈搏のみであります。
 幸内の看病には、ほとんど誰も寄せつけないでお銀様ひとりがそれに当っておりました。駒井家から是々《しかじか》と聞いても、お銀様はそれを耳にも入れないのでした。駒井家の使の者に対してすらお銀様は、一言のお礼の挨拶をもしようとはしませんでした。殿様のことは無論、あれほど親しかったお君の身の上のことすらも尋ねようとはしませんでした。お君からは、お嬢様にくれぐれもよろしくと使の者の口から丁寧な挨拶があったのだけれど、お銀様はそれを冷然として鼻であしらって取合いませんでした。それよりも先に幸内を自分の部屋に近い、前にお君のいたところへ休ませて、その傍に附ききりの姿です。
 お銀様はこんなふうに、ただに駒井家に対して冷淡
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