ろうとしたのを、殿様が御主人役で晴れの催しであるこの流鏑馬《やぶさめ》へ、一日もお面《かお》をお出しなさらなくては、殿様へ対しても失礼であろうし、自分たちも肩身が狭いから、ぜひぜひおいであそばせと言って、左右の女たちがせがみました。左右の女たちはそうしなければ、自分たちも出ることができないのであります。
それでぜひなく、お君の方はこうして桟敷の人となりました。桟敷の人となってみると、勢い評判の人とならずにはおりません。どうも多くの人の見る眼と、囁く口が、自分の方にばかり向いているように思われて、お君は、ここへ来てから度を失うようにオドオドしていました。
連れて来られた女中たちは、そんなことは知らずに大喜びで、馬場や、見物客や、打揚《うちあが》る花火を見てそわそわとしていました。お君の眼では、馬場も、見物席も、晴れた空も、ボーッと霞のように見えました。暫らくして、
「御免あそばしませ」
第一番の桟敷から、女中の取締りでもしているような女房が一人、案内を乞う声によって、狼狽したのはお君の方《かた》ばかりではありません、その召連れて来た女中たちまでが不意の案内で驚かされました。
「どなた様」
お君の方の老女は迎えに出ました。
「筑前守内より使に上りました」
「筑前守様のお内から?」
それでお君の方《かた》の一座はハッとしました。
「これは、まことに粗末な品でござりますれど、能登守様のお内方《うちかた》へ差上げ下さいまするよう、主人からの言いつけでござりまする」
使に来た女中が捧げているのは、蒔絵《まきえ》の重《じゅう》に酒を添えて来ているものらしくあります。
「それはそれは」
お君の方の一座は、恐縮したり当惑したりしてしまいました。
この際、こんなことをされては有難迷惑の至りで、もしそれをせねばならぬ礼式があるならば、こちらから先にするのが至当でありましょう。それを向うから持って来られてみると、好意を受けないわけにはゆかないし、またその好意なるものが、形式|一遍《いっぺん》の好意ではなくて、なんとなく底気味の悪い好意として見られ易いのです。
「こちらから御挨拶に出ねばなりませぬところを、斯様《かよう》な結構な下され物、なんとお礼を申し上げましてよろしいやら……ともかく、有難く頂戴いたしまする、後刻、改めて御礼に……」
老女は詮方《せんかた》なしにこう挨拶
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