「かまいたち」に傍点]にでもやられたのかね」
米友は多少、それを気遣《きづか》ってやらないわけにはゆきません。
「そんなことじゃない、袖切坂で、わたしは転んでしまったのだよ、ちぇッ」
お角の言いぶりは自暴《やけ》のような気味であります。
「袖切坂がどうしたって」
「ここがその袖切坂なんだろうじゃないか、ところもあろうに、あんまりばかばかしい」
「そりゃ木鼠《きねずみ》も木から落っこちることがある、転んだところで怪我さえしなけりゃなあ」
「怪我もちっとばかりしているようだよ、向《むこ》う脛《ずね》がヒリヒリ痛み出した」
と言ってお角は、紙を取り出して左の足の膝頭《ひざがしら》を拭くと、ベッタリと血がついていました。
「やあ血が!」
米友も、その血に驚かされると、お角は、
「怪我なんぞは知れたことだけれど、袖切坂で転んだのが、わたしは腹が立つ」
お角は、よくよくここで転んだのが癪で堪《たま》らないらしい。
袖切坂を登ってしまうと行手に大菩薩峠の山が見えます、いわゆる大菩薩嶺《だいぼさつれい》であります。標高千四百五十|米突《メートル》の大菩薩嶺を左にしては、小金沢、天目山、笹子峠がつづきます。それをまた右にしては鶏冠山《けいかんざん》、牛王院山《ごおういんざん》、雁坂峠《かりざかとうげ》、甲武信《こぶし》ケ岳《たけ》であります。
素足で坂を登りきったお角は――坂といっても袖切坂はホンのダラダラ坂で、たいした坂でないことは前に申す通りです。そこで、お角は米友を顧みて、
「友さん」
と米友の名を呼びました。
「よく覚えておきなさい、この坂の名は袖切坂というのだから」
そういう言葉さえ余憤を含んでいるのが妙です。
「袖切坂……」
米友は、お角に聞かされた通り、袖切坂の名を口の中で唱えましたけれど、それは米友にとってなんらの興味ある名前でもなければ、特に記憶しておかねばならない名前とも思われません。
「ナゼ袖切坂というのだか、お前は知らないだろう」
「知らない」
「知らないはずよ、わたしだって、ここへ来て初めて土地の人から、その因縁《いわれ》を聞いたのだから」
お角は坂を見返って動こうともしません。米友もまたぜひなくお角の面《かお》と坂とを見比べて、意味不分明に立ちつくしていました。そこらあたりは畑と森と林が夕靄《ゆうもや》に包まれて、その間に宿はずれの家の屋
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