に今夜という今夜、柳小路で見かけた怪しの者、見えがくれに後をつけると、要法寺の墓地へ入って行衛が知れず、引返そうとした時に、かねて謀《しめ》し合せておいたこの男、同じような怪しい者が、たった今、古城の方へ行ったと申す故、二人で後追いかけて、たしかに姿を認めたのが当屋敷の裏手。喜び勇んで駈けつけて見れば、それは尋ねる曲者ではなくて、御主人の神尾殿がこの体《てい》たらく」
小林文吾は一通りの事情を話して苦笑いしました。
「それは、それは」
神尾はそれを聞いてなんとなく腑《ふ》に落ちないような心持で、例の座敷の傍へ来て縁側から覗いて見ると、さいぜん、さんざん問題にした丸行燈の火は消えてしまっていましたから、中は真暗でありました。
幸いに米友は小田原提灯を持っていました。頼まれもしないのに、幸内を担いでその縁側のところまでやって来ていました。
主膳と幸内とを座敷の中へ送り込んで、小林文吾と米友とはそこを辞して外へ出てしまいました。
そのあとで、主膳は座敷の中で寝転んで、詩を吟じてみたり、新内《しんない》を語ったりしてみましたが、やがて思い出したように起き直りました。米友が提灯からうつした行燈には火が入っていました。その行燈の下に幸内は、水を浴びせられたままで放《ほう》って置かれてありました。主膳はその傍へ寄って来て、
「幸内、お前にもだいぶ苦しい思いをさせたな、どれ、許してやろう、縄をゆるめて遣《つか》わすぞ」
と言って、縛ってある幸内の縄の結び目を解きにかかりました。酒乱は止んだらしいけれど、酔いはまだ醒《さ》めていないようであります。
ついに面倒になったものと見えて、主膳は小柄《こづか》を抜きました。その小柄でブツリブツリと縄を切ってしまいました。
こうして手首の縄を切られたけれど、幸内はグッタリとしていました。
「ははははは、おとなしいな」
と主膳は笑いました。それから同じ小柄をもって足首の縄をブツリブツリと切りかかりました。
縄は足首の中に食い込んであったのを切ってしまうと、幸内の両足も自由になりました。
両手も両足も自由になったけれど、幸内はグッタリとして動きません。それはそのはずです、三杯目の水を浴びせられようとする時分から、幸内は絶息していたものでありましたから。
「ははは、永らく窮命させた、これで許して遣わす、どこへなと勝手に出て行け」
神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。
「はははは」
と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると新内《しんない》の明烏《あけがらす》をところまんだら摘《つま》んで鼻唄《はなうた》にしているうちに、グウグウと寝込んでしまいました。
主膳の鼾《いびき》がようやく高くなった時分に、幸内の身体が少しばかり動きました。絶息していた幸内の眼に白い雲のようなものがかかりました。幸内は夢のように手を振りました。それが気のついたはじめで、それから自分のことを覚《さと》るまでには、なお幾分かの時間がかかりましたけれど、結局、幸内は我に返りました。
我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。
それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体で這《は》い起きたのが不思議なくらいでありましたけれど、這い起きて見るとこれも嬉しや、足も自由になっていました。
見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。
幸内はゾッとしてしまいました。永らく己《おの》れを苦しめて苦しめ抜いた極悪人《ごくあくにん》という憎悪《ぞうお》がむらむらと起りましたけれど、その憎悪は復讐《ふくしゅう》というところまで行かない先に、恐怖を以て占領されてしまいました。
何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも犇々《ひしひし》と迫って来たから、幸内は縁側の方の戸を押し開きました。一生懸命で戸を開いて縁側へ出て、縁側から転げ落ちて、やっと起き直って、庭を駈け出してまた転びました。また転んでまた起きました。その有様は後ろから鬼に追われて、足の竦《すく》んだ夢を見ているような形でしたけれど、別に何者も追いかけるのではありません。
神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。
例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつも蒼《あお》ざめている面《かお》が一層蒼ざめていました。
「神尾殿、神尾殿」
行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。
「やあ、机氏、どこへ行っていた」
神尾主膳はやっと起き直りました。
「夜遊びに行って来た」
と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、
「や!」
神尾は悸《ぎょっ》として少しく身を退《しりぞ》かせました。
胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。
神尾が見て悸《ぎょっ》としたのは、その竜之助のもぎ取ろうとしている白い物が、人間の手のように見えたからであります。
人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。
「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」
主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。
「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」
竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。
「どうしたのじゃ」
主膳は再びたずねました。
「これが……この手首が……」
竜之助は、自棄《やけ》に力を入れてその羽織にぶらさがった人間の手を引きました。
「斬ったのか、人を斬ったのか……」
主膳は面を突き出して、その手首を篤《とく》と見届けようとして、
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに密着《くっつ》いて離れない」
「拙者が離してみてやろう」
神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
それから、やや暫らく古屋敷の中は寂然《ひっそり》としていましたが、
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に透《とお》りました。
「叱《し》ッ、静かに」
それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに気がつかないでいたと見えます。
それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の行方《ゆくえ》がわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、狼狽《ろうばい》をはじめましたようであります。
主膳は周章《あわただ》しく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が透《す》く、たまらぬ」
竜之助は座の左を探って、手柄山正繁《てがらやままさしげ》の刀を取り上げました。
「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗な面《かお》をしていたか、醜い面をしていたか、それもわからぬ。若い女であったら何とする、また美しい女であったら何とする、おれはただ斬ればよいのだ、斬りさえすれば胸が透くのだわい。声をしるべに斬った途端に、縋《すが》りついて泣いたからまた斬った、それでこの片腕がおれの羽織にしがみついたなりに残った」
竜之助はその刀に残る血の香に顫《ふる》えつくようでありました。身体もまたブルブルと顫えて、手に持った刀から水が飛ぶようであります。
「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、咽喉《のど》が乾くように人が斬りたい。あの幸内とやらは逃げたそうな、長持の中の窮命人は逃げたそうな、せめて彼でもいたら斬ってみたい、一人では斬り足らぬ。どうしてまた、今宵はこれほどに人が斬りたいのだ」
竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているのでありました。それは血を飲みたいがために乾いた咽喉であります。
「ああ、甲府は狭い、一夜のうちに二人と人が斬れぬ、江戸へ出たい、江戸へ出れば、好みの人間を好むように斬ることができるのだ――今宵斬れば明日の晩は遠慮せにゃならぬ。甲府の土地にはおられぬ、江戸へ出る工夫はないか。江戸へ出て思うままに人を斬らねば、おれは生きてはおられぬのだ」
彼は狂する者のように、刀の血の香いを嗅いでいるのでありました。
九
その翌朝、甲府の市中がまた沸き立ちました。それはまたしても辻斬があったからであります。
その騒ぎ方と驚き方と怖れ方とが、今までよりも一層甚だしかったのは、斬られたのが女であったからであります。今まで斬られた者のうちに女は一人もありませんでした。昨夜斬られたのは女でありましたからです。
それは八日市《ようかいち》へ呉服屋を出して、いくらもたたない若夫婦でありました。その女房が良円寺の門の前で斬られました。それはこの暁方《あけがた》のことでありました。
この呉服屋の小店《こだな》の若い夫婦の間には、今年生れの可愛い男の子があって、虫のせいかその夜中に苦しがって気絶してしまったのを、若い女房は、その夜中であることも、このごろ辻斬が流行《はや》るというようなことも知っておりながら、考え直す余裕がなく、良円寺の内に住んでいるお医者を迎えに行きました。
夫なる人もまた、自分が女房に代って医者を迎えに行くことさえ気がつかなかったくらいでしたから、気絶した子供を抱えて、前後を顛倒して為すべき業《すべ》を知らなかったものであります。
そのうち隣家の人も来てくれましたけれど、女房は帰らないし、医者も駈けつけてくれません。
隣家の人たちが提灯をつけて、良円寺まで迎えに行った時から、この騒ぎが始まったものであります。
女房は帰らないはず、医者も来てはくれないはず――その若い女房は良円寺の門前に斬られておりました。
思慮のない人々は、その驚愕と戦慄と恐怖とをそのまま生《なま》で持って来て、若い亭主の前へブチまけたからたまりません、若い亭主はその場で即座に発狂してしまいました。
抱いていた子を投げ出してゲラゲラと笑い出しました。
来てくれた人々を見てもゲラゲラと笑いました。釣台で運んで来たその女房の無惨《むざん》な亡骸《なきがら》を見た時もゲラゲラと笑
前へ
次へ
全19ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング