認めません。棒だけを持って槍の必要につかえるのでありました。
 それにまた、穂をすげれば血を見ずしては納まらないのも、穂がなければ単に敵を懲《こ》らすだけで済む、という理由もありました。
 今は穂をすげなければならない場合になってきたと見ゆるに拘《かかわ》らず、なお米友は、それを敢《あえ》てするの余裕を持たないと見えます。
 ものの五間ほど飛び退《しざ》ってから、やや暫らくして、
「やい、出て来い、かかって来い、隠れていちゃあ相手にならねえ」
 ようやくのことで米友は、これだけの言葉を出すの余裕を持つことが出来ました。これだけの言葉を出したけれども、その構えは少しも弛《ゆる》めることをしませんでした。やはり米友は、この中で誰をか相手に戦い、今その相手を呼びかけたものであります。
 しかしながら、如法闇夜の中に何者も見えないように、何者の返事もありません。
「うむ、掛って来ねえのか、掛って来なけりゃあ、何とか言ってみろ、何とか言えば、俺《おい》らの方から掛って行く、返事をしてみろ、やい、一言《ひとこと》ぬかしてみろ、やい」
 米友は続いてこう言いましたけれども、掛っても来らず、一言の返事もありません。
「おかしな奴だな、斬りたけりゃ斬られてやるから出て来いよ、憚《はばか》りながら宇治山田の米友だ、斬って二ツになったら大《でか》い方をくれてやらあ」
 そろそろ米友の啖呵《たんか》が始まりそうな形勢です。
「うむ、何とか吐《ぬか》せやい、俺《おい》らの方から出て行ってやりてえのだが、理詰《りづめ》の槍になっているからそうはいかねえのだ、ここは手前《てめえ》の方から出て来るところだ、盲目《めくら》なら仕方がねえが、盲目でなかったら出て来いやい」
と米友は啖呵を切りました。盲目なら仕方がないが、盲目でなかったら出て来いと米友が言ったのは、故意に出たのではありません。しかしながら相手は決して出て来ませんでした。自然、米友は力抜けがしました。
「どうもおかしな奴だな、今、ああして俺らが後ろへ飛んだ時に、手前がもう一太刀追っかけて来ると、実は俺らも危《あぶ》なかったんだ。ナニ、身体《からだ》を斬られるまでのことはねえが、槍は二つに斬られていたかも知れねえのだ。俺らにとっちゃあ身体を斬られるより、槍を斬られるのが恥かしいくれえのものなんだ。それを手前が追っかけずにいるのが気が知れねえよ。いったい、俺らの腕を試すつもりで斬りかけたのか、またホンとに俺らを斬るつもりで斬りかけたのか、そこんところがどうも解《げ》せねえやい、何とか挨拶をしろやい」
 米友はこう言いながら、槍を左の手に持ち直して身を屈《かが》ませました。もう先方が確かに斬ってかかる気遣いがないから、それで形をすっかり崩してしまって、そうして右の手を伸べて往来の地面を掻きさがしました。ちょうど手頃の石があったのを拾い取って、腰をのばしました。
「それ!」
 ヒューと風を切ってその礫《つぶて》が米友の手から暗夜の宙に飛びました。投げたものを受け留めることを商売にしていた米友は、また同時に投げることも巧みでありました。暗夜の宙に飛ぶ礫は聖人もまたこれを避けることができないはずであったけれど、幸いにして米友の投げた礫の的《まと》には、聖人も凡夫もいなかったと見えて、向う側の古池かなにかに飛んで行ってパッと水音を立てただけです。
 礫は空《むな》しく飛んだけれども、
「合点だ!」
 米友はけたたましく叫びました。叫ぶと共にその棒を一振りして水車のように廻し、
「危ねえものだが、その方はお手の物よ、餓鬼《がき》の時分からそれで飯を食っていたんだ」
 水車のように廻した棒の七三のあたりへ、カッシと立ったのは刀の小柄《こづか》であります。それを受けとめるべく米友は、前のような惨憺《さんたん》たる苦心に及びませんでした。南禅寺の楼門でする五右衛門の手裏剣を柄杓《ひしゃく》で受けた久吉《ひさよし》気取りに、棒に食い付いた小柄を抜こうともせず、再び身を屈めて小石を拾いました。拾い取るとヒューと手の内から飛びました。手の内から飛ぶと、矢継早《やつぎばや》にまた拾いました。拾っては投げ、拾っては投げる米友の礫、それは上中下の三段から、槍を遣《つか》う如く隙間《すきま》もなく飛ぶのでありました。
 礫《つぶて》は隙間なく飛んだけれども、やはりその手答えはなくている途端に、
「破牢! 破牢!」
 この声が闇を圧して物凄く響き渡ります。
 それを聞くと米友は、礫を打っていた手を少しく控えて耳を傾ける。このとき早く、
「あっ!」
と言って米友は、また後飛びに五間ほど、今度は腰を立て直す隙《ひま》がなくて、仰向けに大地へ倒れてしまいました。仰向けに倒れたけれど米友は、倒れながらその槍を構えることを忘れませんでした。そしてやや暫くその形で、すなわち倒れたままで槍を構えた形でじっと身動きをしません。米友がこんな形をしてじっとしているのはかなり長い時間でありました。しかしながら事はそれだけで、それ以上の破綻《はたん》を示しませんでした。すべてこれは米友の一人芝居であります。五里霧中の中で米友は、始終こうして一人芝居を打っていました。しかしながら米友は、まだまだこの構えから起き上ることはできません。四方転《しほうころ》びの腰掛をひっくり返したような形をしたままで、いつまでも大道の真中に寝ているのは、他《よそ》から見ればかなりおかしい形でないことはないけれど、米友自身になってみれば、油汗を流しているのです。今の時間で言えば、ほとんど三十分ばかり、米友はこうして油汗を流して唸《うな》って槍を構えていました。そうしていた時分に米友は、
「エイ」
と言ってその槍を、やっぱり寝ながらにして横に一振り振ると、今度はたしかに手答えがありました。
「ワン!」
 米友の横に振った棒を飛び退いてまた飛びついて、ワン! といったのは人間ではない、かなり大きな形をしている犬の声でしたから、米友は勃然《むっく》としてはねおきました。
「ばかにしてやがら」
「ワン!」
「こん畜生」
「ワン!」
「まだ逃げやがらねえ」
「ワン!」
「殴《なぐ》るぞ、こん畜生」
「ワン!」
「それ!」
「ワン!」
 さすがの米友も呆気《あっけ》に取られてしまいましたのです。今まで必死になって相手にしていたのは、こんな犬ではないはずであります。相手が犬であるくらいであったならば、米友は惜気《おしげ》もなく十二神将や二十八部衆の形をして見せたり、また縁台がさかさになったような形をして、半時間も大道に寝ている必要はなかったのであります。
 五里霧中とは言いながら、その中にはまさに米友をして怖れしむべき敵があったればこそ、彼はさんざんの苦心をして、一人相撲や一人芝居を打って見せていたものを、その大詰に至って犬が一匹出て来て、舐《な》めてかかろうとは、いかな米友といえども力抜けがして、呆然《ぼうぜん》として起き上ったのも無理のないところでありました。
「こん畜生!」
 米友は業腹《ごうはら》になって、犬をこっぴどく打ち据えようとしました。しかし、この犬がまた追っても嚇《おど》しても容易に逃げないで、いよいよ米友の近くに飛びついて縋《すが》りついて来たがるというのが、よくよくの因果であります。
 米友が棒を振り廻せば犬は心得てそれを避け、棒を控えていれば懲《こ》りずまたすぐに傍へ寄って来て、吠えてみたり、鼻を鳴らしてみたり、身体を擦りつけようとしてみたり、ずいぶん人を食った犬としか思われません。米友はばかばかしいやら腹が立つやらしてたまりません。
「狂犬《やまいぬ》だろう、打《ぶ》ち殺してくれべえぞ!」
 打ったり払ったりするだけでは我慢がなり難くなったから米友は、殺気を含んで棒を振いました。その棒の下にあって犬はいっそう声高く吠えました。
「おや?」
 米友は振り上げた棒を振り下ろすことなしに、この時ようやく犬の声音《こわね》を聞き咎《とが》めました。犬は透《す》かさずその米友の足許へ寄って来ました。
「待て待て、手前の声は聞いたことのあるような声だ。ムクじゃあねえか、ムク犬じゃあねえか」
 犬はこのとき鼻息を荒くして、米友の腰へ絡《から》みつきました。
「いま提灯をつけるから待っていろ、もし手前がムクだとすれば、俺《おい》らは嬉しくてたまらねえんだ」
 米友の腰につけた小田原提灯は消えていましたけれど、幸いにこわれてはいませんでした。その中には火打道具も用心してありました。
 果してその犬はムクであります。
 ほどなく宇治山田の米友とムク犬とは、嬉《うれ》し欣《よろこ》んでその場を駈け出しました。
 しかし、例の靄《もや》は少しも霽《は》れる模様はなくて、いよいよ深くなってゆきそうであります。その靄の中で、あっちでもこっちでも、破牢、破牢、という声が聞えるのでありました。
 今や、米友にあってはそれらの声は問題でなくなりました。辻斬も牢破りも今はさして米友の注意を惹《ひ》くことがなく、ただムクの導くところに向って一散《いっさん》に走るのみでありました。
 ムクの導くところ――そこにはお君がいなければならないのであります。
 町筋はどうで、道中をどう廻ったか、米友はトンと記憶がありません。米友にあっては、ただムクを信じてトットと駈けて行くばかりであります。
「ムクやい、どうした」
 暫くして米友は足を止めました。それは今まで先に立って走っていたムク犬が、急にあるところで立ち止まったからであります。
 立ち止まったムク犬は、しきりに地を嗅ぎはじめました。地を嗅いでいたが何と思ったのか、真直ぐに行くべきはずの道を横の方へと鼻先を持っていくのであります。
「ムクやい、どこへ行くんだ」
 米友は腰なる小田原提灯を外《はず》して、ムクの行く先を照して見ました。もちろん、その通りの靄でありましたから、提灯の光も、足許だけしか利きませんでした。利かないけれども、米友はその提灯を突き出しながら、地を嗅ぎ嗅ぎ横へ外《そ》れて行くムク犬のあとを監視するように跟《つ》いて行きました。これはどっちも前のように勇み足ではありません。
「ムクやい、手前、道を間違えやしねえか、これ見ねえ、ここはどっちも松並木で、それ並木の外は藪《やぶ》で、その向うは畑になってるようだぜ、いいのかい、こんなところに君ちゃんがいるのかい、道を間違えちゃあいけねえぜ」
 米友は、小田原提灯の光の許す限り、前後左右を見廻しました。それにも拘らずムクは、やはり地を嗅ぎながら、その松並木の横道を入って行くことを止めないから、米友もぜひなくそのあとを跟いて行きました。
 暫くすると、一つの祠《ほこら》の前へと米友は導かれて行きました。その祠は荒れ果てた小さなものであります。社殿の前までムク犬に導かれて来た時に、米友は小田原提灯を差し上げて、
「こりゃ天神様だ、天神様の社《やしろ》に違えねえが、その天神様がどうしたんだ」
 米友は小田原提灯を翳《かざ》していると、やっぱり土を嗅いでいたムク犬は、急にその巨大な体躯《からだ》を跳上《はねあ》げて、社の左の方から廻って裏手へ飛んで行きました。
「ムク、待ちろやい」
 米友は急いでそのあとを追いかけて、この荒れたささやかな天満宮の社の後ろへ廻って見ると、後ろは杉の林であります。
 米友はムクを信じています。ムクの導いて行くところにはいつも重大の理由も事情も存するということを、米友はよく信じているが故に、五里霧中の上の闇の夜の杉林の奥をも、疑わずに踏み込んで行き得るのであります。

 ほどなく宇治山田の米友が、この杉の林を出て来た時には、背中に一人の人を背負っておりました。小さい米友の身体《からだ》に大の男を一人背負って、濛々《もうもう》たる霧と靄と闇との林を出て来ると、例のムク犬は勇ましく、またも前の天神の祠から松並木を、先に立って案内顔に走って行くのであります。
「待てやい、ムク」
 道の傍に井戸を探し当てた米友は、その前へ棒を突き立てて、
「この人に水を飲ませてやりてえんだ、俺《お
前へ 次へ
全19ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング