ある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、其方《そのほう》共は主人の言いつけを聞かぬな、其方共までこの主膳を侮《あなど》ると見ゆるな」
神尾主膳は、また酔眼を据えて室内を睨《ね》め廻したが、
「はははは」
と高笑いをしました。
「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ケ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には法性狐《ほっしょうぎつね》がいる、そのほかには誰もいない、いないところへ物を言いつけた、これは拙者が悪い、どれどれ、大儀ながら御自身に立って、あの燈火を掻き上げにゃならぬ、燈火《ともしび》は暗し数行虞氏《すうこうぐし》が涙《なんだ》――」
こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて火影《ほかげ》を明るくして、覚束《おぼつか》なくも油をさえ差加えましたから、四辺《あたり》は急に明るくなりました。
「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ
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