にょほうあんや》の中に一人で立ち尽していたのは、その子供の泣く声を聞いたからであります。子供の泣く声が、だんだん自分に近く聞えて来たからであります。
「モシモシ」
と言って、霧のような靄の中から、不意に言葉をかけたものがありました。
 それは、竜之助を見かけて呼んだものとしか思われないのであります。ナゼならば竜之助のほかにこの夜中に、ここらあたりを歩いている人があろうとは、竜之助自身も思い設けぬことでありました。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
 こう言いながら近寄って来るのであります。
 近寄って来るところによって見れば、その背中で子供が泣きじゃくっているらしいことであります。竜之助は、ただ黙って立っていました。
 ここにおいても竜之助は、その自身すら、自分に近寄って来る者の心のうちを推《すい》するに苦しみました。
 ことにまだ乳呑児《ちのみご》らしいのを背にして、この夜中に、人もあろうに、自分を呼びかける人の心は計られぬのです。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
 竜之助は近寄って来る者の足音に耳を傾けましたけれども、その足音は一人の足
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