…」
と言って立ちかけたお君は、この箱の中にあった絵姿に見入ってしまいました。これは絵姿ではありません。けれども、お君は、絵姿だと思って、
「ほんとに、お生写《いきうつ》し……どうしてこんなに上手にかけるものでございましょう」
と我を忘れて驚嘆したのであります。
「それはかいたのではない」
と能登守は微笑しました。けれども、お君にはその意味がわかりませんでした。
「恐れながらこちらのは、殿様、こちらのお方は……」
お君の見ている絵姿には、二人の人の姿が写し出されてあるのであります。その一人はこの能登守、もう一人は気高《けだか》い婦人の像《すがた》でありました。
「それは、お前によく似た人」
この時のお君が写真というものを知ろうはずがありません。眼に見たことはおろか、話にさえ聞いたことはありません。
「それは、お前によく似た人」と言われて、お君の胸は何ということなしに騒ぎました。念を推してお尋ねするまでもなく、これは殿様の奥方でいらっしゃるとお君は覚《さと》りました。
お君は奥方のお像をじっと見入って、「お前によく似た」とおっしゃった殿様のお言葉が、おからかいなさるつもりのお言葉ではないと、お君は自分ながら、そう思いました。己《おの》れの容貌を買い被るのも女であるし、己れの容貌をよく知るのも女であります。
「それは写真というもので、筆や絵具でかいたのではない、機械でとって薬で焼きつけた生《しょう》のままの像《すがた》じゃ、日本ではまだ珍らしい」
絵姿だとばかり思って、お君があまり熱心に見恍《みと》れているものですから、能登守が少しばかり説明を加えますと、
「これはかいたものではございませんか。まあ、機械で、どうしてこんなによくお像を写すことができるのでございましょう、切支丹《きりしたん》とやらの魔法のようでございます」
「そうそう、最初はそれを切支丹の魔術と思うていた、今でもその写真をとると生命《いのち》が縮まるなんぞと言うものが多い、けれどもそれは取るに足らぬ愚《おろ》かな者の言い分じゃ」
「ほんとにお珍らしいものでございます」
お君はその写真を飽かず見ておりました。自分は今お暇乞いをして立とうとしていることも忘れて、写真から眼をはなすことができません。
「それをお前が欲しいならば、お前に上げてもよい」
能登守からこう言われた時に、面《かお》を上げたお君の眼は狂喜にかがやいて見えました。
こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて帛紗《ふくさ》に包み、後生大事《ごしょうだいじ》に袖に抱えてこのお邸を立ち出でました。
それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるような戦《おのの》きが幾度か往来《ゆきき》をします。その戦きはお君にとって怖ろしいものでなく、心魂《しんこん》を恍《とろ》かすほどに甘いものでありました。
「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」
お君は身を揺《ゆす》って、そこから己《おの》れの心の乱れて行くことを、更に気がつきません。
ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がお濠《ほり》の外で待ち焦《こが》れておいでなさるだろうということも、この時は思い出す余裕がありませんでした。さいぜん親切に案内された門番へさえも、一言《ひとこと》も挨拶をしないで門を通り抜けようとして、門番から言葉をかけられてようやく気がついて、あわててお礼を言ったくらいでありました。
橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。
「お嬢様は……」
と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。
その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時を費《ついや》したことを考えました。待たせる自分は嬉しさに包まれて時の移るのを知らなかったけれど、待たせられたお嬢様にとっては、ずいぶん長い時間であったろうと気がつきました。
二
これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。
役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれを睨《にら》みました。市五郎はなにげなくそれを反《そ》らして行ってしまったが、お銀様がそれを忘れてやや久しいのに、お君はまだ御門から出て来る模様がありません。
お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。
そうすると、問屋場の方から五六人かたまって私語《ささや》きながらこっちへ来る
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