と能登様といずれかにお頼み致すよりほかはなかろうと思っておりまする。また別に組頭や奉行衆のうちにしかるべきお方があれば、その方へお頼みすることにしてもかまいませぬ」
「左様でございますな、お組頭やお奉行衆のうちで……それも結構でございますが、御当家様のお媒妁としては、やはり御支配様をお頼みになるのが順当でございましょう。その御支配様と申しましても、能登様は御新任の上に、お年もお若いし、それに奥方様をお連れになりませぬ故、やはりお年と申しお二方のお揃いと申し、筑前様をお頼みあそばすが至極よろしいことのように存じまする」
「わたしもそう思いまする。それに主膳殿は能登様とは合いませぬ」
「左様……」
「もとは同じぐらいの格式の旗本、それで同じところへ勤めていると、若い同士でどうも気拙《きまず》くなって困ります」
「けれども能登様へも、一応のお話は申し上げませんと」
「それは筑前様の方を、よくよくお頼み申しておいて、お話をきめた上で能登様へは一通りの御挨拶だけにしておきたいと、主膳殿も申しておりました」
「左様でございますな……あれで能登様もなかなか肯《き》かぬところがおありなさるから、万一、この縁談に……そんなこともございますまいが、能登様から故障が出るようなことがございますると……」
「それだから、最初に筑前様の方を纏《まと》めておけばよいではありませぬか。その筑前様へのお使は、わたしが行って、きっと纏めて参りましょう」
「左様ならば大丈夫でございます、御別家様から懇《ねんご》ろにお頼みになりますならば、大丈夫でございます」
市五郎はそこへ仰山《ぎょうさん》らしく保証をおいて、お暇乞いをして帰ろうとすると、
「まあ、よいではないか、前祝いに何か差上げたいもの……お松や、お松はおらぬかいな」
お絹は市五郎を引留めてお松の名を呼びました。
お絹から呼ばれてお松はその席へ出ますと、
「こっちへお入り」
お松はしとやかに座敷の中に入りました。
そこでお絹はお松を市五郎に引合わせると、市五郎は遽《にわ》かに膝を揃えて座を下り、
「これはこれは初めまして、わたくしが市五郎めにござりまする、どうぞお見知り置かれて」
と非常に低く頭を下げましたから、お松はそれに準じて丁寧に挨拶をし、
「行届かぬものでござりまする、なにぶんよろしく……」
と両手を揃えて言いました。
近づきが終ってから市五郎は卑下《ひげ》と自慢とをこき交ぜて、自分がこの土地に長くいることだの、折助や人足、それらの間における自分の勢力が大したものであること、御支配をはじめ重役の間にて自分の信用が多大であるということ、そんなことを、それとなく言っているが、お松には聞き苦しいほどであるのに、お絹は上機嫌で、
「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」
とまで言いました。
お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも容易《たやす》く懇意になってしまって、ああして気を許すお師匠様の挙動がお松には歎かわしい。
六
甲府の牢屋は甲府城の東に方《あた》ってお濠と境町の通りを隔てて相対し、三方はお組屋敷で囲まれている。そのお組屋敷の東は御代官の陣屋になっているのであります。
宇津木兵馬の囚《とら》われているのは、その牢屋の中の一番室で、それは六畳敷でありました。その六畳の中には兵馬と、そのほかに一人の奇異なる武士が囚われています。
この室の中の南と北は格子であります。東と西は羽目《はめ》であります。
宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。
その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。
「うーん」
というて苦しげに呻《うな》るのは寝ている宇津木兵馬の声で、それと同時に寝返りを打とうとするらしい。
「宇津木、苦しいか」
奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、
「いや、別に」
と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさを耐《こら》えている返事です。
「もう一服、飲んでみるか」
と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、蒲団《ふとん》の下を探ります。
「うーん」
と兵馬はまた苦しげに呻りまし
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