、お君、お君や」
 続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。
 お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな寒椿《かんつばき》が一輪、留守居顔にさされてあるばかりです。
「どこへ行ったのだえ」
 お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。
「まあ、これは珍らしいもの」
と言って、つくづく眼を注《そそ》いだのは一枚の写真でありました。その写真は、先日お君が駒井能登守からいただいて来た、何よりも大切にしている二人立ちの写真なのであります。
 最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。
「アア、口惜しいッ」
 鬼女《きじょ》が炎をふくように言い捨てました。
 その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。
 その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守の像《すがた》でありました。それと並んだ一人は女の像でありました。
「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」
 お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を咬鳴《かみな》らしました。
「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」
 お銀様は頭を自棄《やけ》に振って、銀の簪《かんざし》を机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真の面《おもて》に吹きかけました。
 お銀様の呪いの的《まと》となっている写真の中の女の像、それは裲襠姿《うちかけすがた》の気高い奥方でありました。美男の聞えある能登守と並んだこの気高くて美しい奥方。お銀にとってそれは、骨を削ってやりたいほどに呪わしいものでなければなりませぬ。
 ことに、あのお濠《ほり》の外で、折助どもからあんな無礼な仕打をされている時に、城の中で二人にこんなことをされては……それが口惜しくて、嫉《ねた》ましくて、腹立たしくて、呪わしくて、お銀様の銀の簪持った手がワナワナと慄《ふる》えて慄えてたまりません。
 お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、
「エエ、覚えておいで」
と言ってズブリ――その女の像《すがた》の面をめがけてつきとおそうとしました。
「お嬢様、まあ何をなさいます」
 あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。
「お放しなさい」
 お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。
「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」
「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」
「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」
「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口借しい!」
「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」
 お君は日頃に似気《にげ》なく争いました。お銀様はほとんど狂気の体《てい》で写真を遣《や》らじとしました。一枚の写真を争う両人《ふたり》は、ほとんど他目《よそめ》からは組打ちをしているほどの烈しさで揉み合いました。
 そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、太息《といき》を吐《つ》きながら、
「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」
「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」
 お銀様がこう言ってその両眼から留度《とめど》もなく涙を落した時に、お君は何と言ってよいか解らない心持になりました。
 いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかが割《さ》かれてしまいました。お君が、もうお嬢様のお傍にいないと言ったのは一時の激した言い分のようであったが、実は本
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