神尾主膳はやっと起き直りました。
「夜遊びに行って来た」
と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、
「や!」
神尾は悸《ぎょっ》として少しく身を退《しりぞ》かせました。
胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。
神尾が見て悸《ぎょっ》としたのは、その竜之助のもぎ取ろうとしている白い物が、人間の手のように見えたからであります。
人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。
「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」
主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。
「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」
竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。
「どうしたのじゃ」
主膳は再びたずねました。
「これが……この手首が……」
竜之助は、自棄《やけ》に力を入れてその羽織にぶらさがった人間の手を引きました。
「斬ったのか、人を斬ったのか……」
主膳は面を突き出して、その手首を篤《とく》と見届けようとして、
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに密着《くっつ》いて離れない」
「拙者が離してみてやろう」
神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
それから、やや暫らく古屋敷の中は寂然《ひっそり》としていましたが、
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に透《とお》りました。
「叱《し》ッ、静かに」
それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに
前へ
次へ
全95ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング