神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。
「はははは」
と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると新内《しんない》の明烏《あけがらす》をところまんだら摘《つま》んで鼻唄《はなうた》にしているうちに、グウグウと寝込んでしまいました。
 主膳の鼾《いびき》がようやく高くなった時分に、幸内の身体が少しばかり動きました。絶息していた幸内の眼に白い雲のようなものがかかりました。幸内は夢のように手を振りました。それが気のついたはじめで、それから自分のことを覚《さと》るまでには、なお幾分かの時間がかかりましたけれど、結局、幸内は我に返りました。
 我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。
 それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体で這《は》い起きたのが不思議なくらいでありましたけれど、這い起きて見るとこれも嬉しや、足も自由になっていました。
 見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。
 幸内はゾッとしてしまいました。永らく己《おの》れを苦しめて苦しめ抜いた極悪人《ごくあくにん》という憎悪《ぞうお》がむらむらと起りましたけれど、その憎悪は復讐《ふくしゅう》というところまで行かない先に、恐怖を以て占領されてしまいました。
 何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも犇々《ひしひし》と迫って来たから、幸内は縁側の方の戸を押し開きました。一生懸命で戸を開いて縁側へ出て、縁側から転げ落ちて、やっと起き直って、庭を駈け出してまた転びました。また転んでまた起きました。その有様は後ろから鬼に追われて、足の竦《すく》んだ夢を見ているような形でしたけれど、別に何者も追いかけるのではありません。
 神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。
 例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつも蒼《あお》ざめている面《かお》が一層蒼ざめていました。
「神尾殿、神尾殿」
 行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。
「やあ、机氏、どこへ行っていた」
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