神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」
 後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり仲間《ちゅうげん》のような扮装《なり》をして、看板の上には半合羽を着て、脇差を一本だけ差しておりました。
「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ釣瓶《つるべ》の縄が切れたから、それで尻餅を搗《つ》いて気を失っただけなんだ」
 小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。
 やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、
「これはこれは、小林文吾殿か」
 この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな扮装《なり》をしてここへ来合せたかということも、疑問にならないではありませんでしたけれど、
「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこの状《ざま》じゃ――して貴殿方はどうしてここへ」
「我々はちと尋ねる人があって、その人を尋ねてこのあたりまで来たところ、ついその人を見失うて……」
「それはそれは、ともかく、あれまで」
 神尾主膳は立ち上りました。先に立って小林を屋敷のうちへ案内しようとすると、
「こりゃどうしたんだ、エ、ここに男が一人縛られて倒れてるが、こりゃどうしたんだ」
と言って、けたたましく叫んで提灯を振りかざしたのは米友であります。
「ああ、そりゃあきちがいじゃ、養生のためにそうして水を浴びせてやるのじゃ」
 神尾は憎そうに言い捨てました。
「いくらきちがいだってお前、この寒いのに井戸側《いどばた》へ、水をかけて置きっ放しにしたんじゃ凍《こご》え死んでしまうじゃねえか」
 米友は同情しました。神尾は米友の方を、じっと見ただけで取合わずに、小林に向い、
「貴殿方が尋ぬる人というのは、そりゃ、いかなる人でござるな」
「ほかではござらぬ、このごろ市中に評判のある辻斬の曲者《くせもの》を尋ねんがために」
「なるほど」
「夜更《よふけ》から暁方《あけがた》へかけて、こうして扮装《みなり》を変えて毎夜のように尋ねてみるが、ついぞ出会《でっくわ》し申さぬ。しかる
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