、そう長持の中に隠れていずと、ちっとは広いところへ出てこいよ、壺中《こちゅう》の天地ということもあるから、それは長持の中もよかろうけれど、若いのにそう隠れてばかりいては命の毒じゃ、それこそ長持ちがないぞ」
 主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持には蓋《ふた》がしてありません。蓋をしてない長持の中へ主膳は手を入れて、鼠を吊し出すような手つきをして、その襟髪《えりがみ》を取って引き立てたのは幸内であります。
 かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋は被《かぶ》せられていないけれども痩《や》せきっておりました。両手は前に括《くく》られていました。両足は揃えて固く縛られてありました。争うにも力は尽き果て、物を言おうにも声が立ちません。
 ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、
「はははは」
 主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、
「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀の祟《たた》り、小人罪なし珠を抱いて罪ありということがある、幸内罪なし刀を抱いて罪ありというのじゃ、伯耆《ほうき》の安綱が悪いのじゃから不祥《ふしょう》せい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘、気の毒ながらお化けのような娘、あれを拙者が嫁にしたいと言うのは、抱いて寝たいからではないぞ、いとしい恋しいと思うからではないぞ、恥かしながら拙者はいま手許《てもと》が不如意《ふにょい》じゃ、伊太夫の財産に惚れたのじゃ、娘には恋なし、財産があるから恋ありと言わば言うものよ、ははははは」
 主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。
 幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、
「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところで壊《こわ》れそうじゃわい、ほかでもない、それは駒井能登めが為す業《わざ》じゃ、あの小賢《こざか》しい駒井能登が邪魔をして、惜しい縁談が壊れかかったわい、残念じゃ、腹が立ってたまらぬわい」
 ここに至って神尾主膳は、正銘《しょうめい》
前へ 次へ
全95ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング