るお松は、牢屋の中に見たいと思う人があるからであります。
その人のために、お松はどのくらい心を痛めているか知れません。お絹を通したり、自分で遠廻しに頼んだりして神尾に縋《すが》りました。ここへ来る道中では駒井能登守にさえも訴えてみました。
けれども、その証拠が歴然たる上に、御金蔵破りのことが重いので、ともかくも本当の犯人が挙った上でなければ、冤罪《えんざい》が晴れまいということを聞かされて、お松の失望落胆は言うべくもありません。
せめて牢屋の模様でも知っておきたいと、お松はその道筋を幾度か指で引いてみました。けれどもそれは徒事《いたずらごと》で、お松の力でどうしようというのではありません。自分の力でどうしようというわけにはゆかないものであると知りながら、お松は人の力の恃《たの》みにならないことをもどかしがって思案に暮れました。
ここは神尾の本邸とは別に一棟をなしているところの別宅であります。その一間に、お絹は取澄まして一人の男のお客を前に置いて話をしていました。
お絹の前に坐っている男の客というのは役割の市五郎です。
「御別家様、まず以て滞《とどこお》りなく運びましてお慶《めで》とう存じまする。御結納《ごゆいのう》はこの暮のうちに日を択《えら》んでお取交《とりかわ》しなさいますように。お婚礼は来春になりまして花々しく」
市五郎が言葉を恭《うやうや》しくこう言いますと、お絹も喜ばしそうに、
「お前さんの橋渡しで都合がよく運びました、これでわたしもワザワザ甲府へ来た甲斐《かい》があると申すもの、主膳殿もこれから身持ちが改まって出世をすることでしょう、三方四方|慶《めで》たいこと」
と言ってお絹は市五郎の労をねぎらいました。市五郎は額《ひたい》を叩いて、
「まことにハヤ慶たいことで。なにしろ、先方が聞えた旧弊の家柄でございますのに、当人がまたばかに気むずかしいものでございますから、どうなることかと心配しておりましたが、幸いなことに、その当人が乗気になりまして、それで話がズンズンと進んで参りました……しかし御別家様」
市五郎が呑込んで話しているのは、例の縁談の一件であります。
「御別家様」
市五郎はお絹を呼ぶのに御別家様の名を以てして、
「お媒妁人《なこうど》はどなた様にお頼みあそばしますおつもりでございますな」
「それは……あの御支配のお二方のうち、筑前様
前へ
次へ
全95ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング