なく、一枚の絵図面を仕立てた横幅《よこふく》でありました。
神尾主膳の家に慶《めで》たいことがあるといっても、それはお松が知ったことではありません。
けれども、このたびの慶事の噂が、お松の耳にはあまりに突飛《とっぴ》に聞えたものですから、多少考えさせられないわけにはゆきませんでした。
今まで放蕩無頼に身を持ち崩して、いったん持った奥方を去ったという主膳が、今になって女房を迎えようとする心持がお松にはわかりませんでした。それから、この殿様を夫に持とうという女はどういう人であろうか、その人の気も知れないように思いました。
慶《めで》たいことだから祝わねばならぬけれども、お松の常識で考えては、この結婚がどうも末頼《すえたの》もしくは思われません。どうしても一時の権略のための結婚であるとしか思われないのであります。
どうしても、お気の毒なのは、こちらへ貰われて来る嫁御寮《よめごりょう》だと思わないわけにはゆきません。
このお屋敷の殿様が、どういうお方であるかまるきり知らずに、ただお殿様という名前に惚《ほ》れて、可愛い娘を手放す親御たちをもお気の毒と思わないわけにはゆきません。
人の慶《めで》たいことを呪うような心を起すのは浅ましいとは知りながら、お松はこの慶たい噂を慶たからず思いました。
それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている数多《あまた》の書物や掛物のなかにはそれがあるだろうと思っていましたが、幸いにそれを見つけました。
仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。
お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、その廓《くるわ》の内外の武家屋敷や陣屋、役宅などが細かに引いてありました。
お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人を囚《とら》える牢屋があるのであります。聞いてもいやな感じのする牢屋、お松はそれを見たいばかりに、わざわざこの絵図をそっと持ち帰ったのであります。牢屋を見たが
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