心からその気で言ったのであります。
 お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。
 しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいに募《つの》ったけれど、すぐにあとでお君が謝罪《あやま》りました。お銀様もうちとけました。
 謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。それにお銀様はお君に対して、身の廻りのものやらお金などを多分に分けてやりました。お君はそれを有難く思って、なんとなくこのお嬢様の傍を離れたくない心持もしましたけれど、自分の行く先のことを考えれば、その心持も忽ち消えてしまうのであります。
 お君がこのお嬢様の許《もと》を辞して行こうとする先は問うまでもなく、それは駒井能登守のお邸であります。
 主人やお銀様からいろいろの下され物をお伴《とも》の男に馬につけてもらって、お君は愛するムク犬と共に藤原家を離れました。
 みんな機嫌よくお君を送ってくれました。
 有野村から甲府まで行く間に、お君は一足毎に春の野原へ近づいて行く心持でありました。駒井の殿様のお情けというものが嬉しくて、心が溶《と》けてゆくばかりでありました。それでも釜無河原《かまなしがわら》へ来た時分に振返って有野村を見ますと、小高い丘の下に一面に黒くなった森、そこが今まで世話になっていた馬大尽の藤原の家の構えだと知った時に、なんとなく四辺《あたり》の光景が物悲しくなりました。
 幸内に助けられてあの家へ厄介になったかりそめ[#「かりそめ」に傍点]の縁が、思い出にならないということはありません。その幸内は行衛《ゆくえ》が知れないし、それよりもひとり残ったお嬢様が、「わたしもお嫁に行く」と言った一言は今でもお君にとって、何の意味だかよくわからないのであります。
 いったいにお銀様の心持というものは、お君にはよくわかりませんでした。駒井様で所望する自分の身の上をお銀様が途中で、水を注《さ》そうとするような仕打がわかりません。そうかと思えば、そのお暇乞いをした時に冷やかではあったけれど、不快な色を見せないで承知をして下すったこともわかりません。
 自分をすすめて御城内の殿様のところへやりながら、その殿様のお写真に向って、あんなことをなさるお嬢様の気心
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