にょほうあんや》の中に一人で立ち尽していたのは、その子供の泣く声を聞いたからであります。子供の泣く声が、だんだん自分に近く聞えて来たからであります。
「モシモシ」
と言って、霧のような靄の中から、不意に言葉をかけたものがありました。
 それは、竜之助を見かけて呼んだものとしか思われないのであります。ナゼならば竜之助のほかにこの夜中に、ここらあたりを歩いている人があろうとは、竜之助自身も思い設けぬことでありました。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
 こう言いながら近寄って来るのであります。
 近寄って来るところによって見れば、その背中で子供が泣きじゃくっているらしいことであります。竜之助は、ただ黙って立っていました。
 ここにおいても竜之助は、その自身すら、自分に近寄って来る者の心のうちを推《すい》するに苦しみました。
 ことにまだ乳呑児《ちのみご》らしいのを背にして、この夜中に、人もあろうに、自分を呼びかける人の心は計られぬのです。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
 竜之助は近寄って来る者の足音に耳を傾けましたけれども、その足音は一人の足音です。その背に負うた子供のほかには、何者をも引きつれて来たとは思われません。況《いわ》んやこの男をオトリ[#「オトリ」に傍点]にして、あとから与力同心だの、足軽小者だのいう者が覘《ねら》い寄るというような形勢は更にありませんでした。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
 なんらの怖れることと、憚《はばか》ることがなしに、竜之助の刀の下へ、身を露出《むきだし》に持って来る者があります。
「何を聞きたいのだ」
 竜之助は憮然《ぶぜん》として、返事をしてしまいました。
「あの、ほかではございませんがね、少々お尋ね申したいと言いますのはね、それは私の女房のことなんでございますよ、私の女房はまだ若くって、なかなか愛嬌があるおかみさんなんでございますよ」
 憮然とした竜之助は、ここに至って唖然《あぜん》としました。あ、きちがいだ! 道理で……
「その私の女房でございますがね、それはどこへ行ったんでございましょう、どうもあの女房に出られては、私も困るんでございますがね、なかなか愛嬌があって人好きのする女でございますものですからね、近所の人もみんな賞《ほ》めてくれましたんでござい
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