馬大尽の雇人の幸内は、三日目の日が暮れてしまってもついに屋敷へは帰りません。
 伯耆の安綱と称せしかの名刀もまた、幸内と共にその行方を失ってしまいました。
 この前後のこと、甲府の町うちにおりおり辻斬があります。
 三日か四日の間を置いて、町の端《はず》れに無惨《むざん》にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈《こくれつ》なるものであります。
 一刀の下《もと》に胴斬《どうぎ》りにされていたのもありました。袈裟《けさ》に両断されていたのもありました。首だけを刎《は》ね飛ばしたのもありました。ちょうど神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪《いなりくるわ》の御煙硝蔵《ごえんしょうぐら》の裏に当るところで、一つの辻斬があったことが、その翌朝になってわかりました。
 斬られたのは幸内ではありませんでした。ところの方角も幸内の帰って行ったのとは違いますし、ことに斬られた本人が近在の煙草屋でありましたから、直ぐに本人の家族へ沙汰があって、これらが駈けつけて泣きの涙です。
 町奉行の役人と、前日神尾の家へ集まった師範役の小林文吾とその弟子どもも駈けつけました。
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