あるのに、幸内ばかりが無腰《むこし》の平民、しかも雇人の身分でありましたから、遠慮に遠慮をして暫らく頭を上げません。幸内の平伏している傍にはその持って来た長い箱が萌黄《もえぎ》の風呂敷に包んで置かれてあります。
「おお、幸内、よく見えた、御列席の方々も其方《そのほう》の来るのを待兼ねじゃ」
「遅れましてなんとも申しわけがござりませぬ」
「遠慮致さず、これへ出るがよい」
「左様ならば御免下されませ」
 幸内は恐る恐る出て来ました。
「おのおの方」
と言って、神尾主膳は一同の方に向き直りながら、
「ここに見えたのは、これはおのおの方も御存じのことと思わるるが、有野村の伊太夫の家の雇人じゃ、あの馬大尽の雇人であるが、民家の雇人に似合わず感心なもので、剣術がなかなか達者である、村方でも稽古をし、この城下の町道場へもおりおり通う、いたって手筋がよろしい、お見知り置き下されたい」
と言って紹介しました。幸内は、こんなお歴々の方の中へ剣術が達者だの手筋がよいのと吹聴《ふいちょう》されたから、さすがに面を赭《あか》くしてしまって、
「恐れ入りましてござりまする」
 平伏してやっぱり頭が上りません。

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