そこへ駈けつけたのはその後のことであります。

 駒井能登守は有野村の馬大尽のところから帰り道に、
「一学」
と言って若党の名を馬の上から呼びました。
「はい」
「あの犬を大切にしていた娘を、そちは見たような女と思わぬか」
「はいはい、そのことでござりまする、私もそのように申し上げようかと存じておりましたところでござりまする」
「何と思うていた」
「遠慮なく申し上げてもよろしうござりましょうか」
「遠慮なく申してみるがよい」
「左様ならば申し上げてしまいまする、あの女の子は奥方様に生写しでござりまするな」
「そうか、拙者《わし》もそう思うたからそちに聞いてみた」
 能登守は莞爾として一学を顧みました。
「左様でござりまする、奥方様より歳は二つ三つ若いようでござりまするが、あれで奥方様と同じお作りを致させますれば、全く以てわたくしたちまで見違えてしまうでござりましょう」
「その通りじゃ」
 そうして馬を打たせて、御勅使川《みてしがわ》の岸を東へ歩ませて行きました。
「殿様」
「何だ」
「あの、奥方様はいつごろ、こちらへお見えになりまする」
「それはいつともわからん」
「御病気の御容態《ごようす》は、いかがでござりましょうか」
「別に変りはないようじゃ」
「一日も早くお迎え申したいと、家来共一同、そのことのお噂を申し上げない日とてはござりませぬ」
「年内はむずかしかろう、年を越えてもことによると……」
「来春になりますれば、ぜひお迎えに上りとう存じまする」
「あれもこっちへ来たいと言って、いつの手紙にもそのことを書いてあるが、あの身体では覚束《おぼつか》ない故に留めてある」
「殿様も御心配でございましょうけれど、奥方様もさだめてお淋しいことでございましょう、どうか早くお迎え申したいものでござります」
「一学」
「はい」
「あの栗毛を受取りに行く時、あの女にも何か物を遣《つか》わしたいものじゃ」
「左様でござりまする」
「あの犬のために怪我をせずに済んだのじゃ、犬と持主に心付けを忘れぬように」
「しかるべきものを調《ととの》えまするでござりましょう」
「その時に、一応あの女の身の上を聞いてみるがよい、もし邸へ来るような心があるならば、伊太夫へ話をして呼んでみてもよい」
「はい」
 一学は主人が、あの女のことを親切に思うていることに気がつきました。

         六

 馬大尽の雇人の幸内は、三日目の日が暮れてしまってもついに屋敷へは帰りません。
 伯耆の安綱と称せしかの名刀もまた、幸内と共にその行方を失ってしまいました。
 この前後のこと、甲府の町うちにおりおり辻斬があります。
 三日か四日の間を置いて、町の端《はず》れに無惨《むざん》にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈《こくれつ》なるものであります。
 一刀の下《もと》に胴斬《どうぎ》りにされていたのもありました。袈裟《けさ》に両断されていたのもありました。首だけを刎《は》ね飛ばしたのもありました。ちょうど神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪《いなりくるわ》の御煙硝蔵《ごえんしょうぐら》の裏に当るところで、一つの辻斬があったことが、その翌朝になってわかりました。
 斬られたのは幸内ではありませんでした。ところの方角も幸内の帰って行ったのとは違いますし、ことに斬られた本人が近在の煙草屋でありましたから、直ぐに本人の家族へ沙汰があって、これらが駈けつけて泣きの涙です。
 町奉行の役人と、前日神尾の家へ集まった師範役の小林文吾とその弟子どもも駈けつけました。
 町奉行の検視の役人は、現場に立って面《かお》を見合せて腕を組んで、
「たしかに物取りの仕業《しわざ》ではない」
「勿論《もちろん》のこと。これでこの一月ばかりの間に四つの辻斬」
 もう一人が、やっぱり浮かない面をして、現場を今更のように見廻すのであります。
「それがみんな同じ手」
と、もう一人が言いました。
「非常な斬り方である、これはどうも……」
と言って三人の役人が一度に小林師範役に眼を着けました。
 彼等にはなんとも解釈がしきれないから、それで小林の意見を促《うなが》すような眼つきであります。
「これだけに斬る者は……」
と言って、小林も頭を捻《ひね》って思案に余るようでありました。
「刀が非常な大業物《おおわざもの》であるか、さもなければ、人が非常な斬り手である」
 小林は今その屍骸の斬り口を検査して見て、舌を捲いているところでありました。この一カ月来、これで四度辻斬があったのに、そのうち三度まで小林は立会っていました。
 先日神尾の屋敷で試し物があったのも、一つはこの辻斬があったから、それに刺戟されたものであります。
 一人二人の間は話の種であったけれども、四人目となって
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