た。それで自分もその御支配様が、馬に召して、だんだんに近いところへ打たせておいでになる姿を、お銀様と同じようにながめていますと、
「お幾つぐらいでしょうね」
 お銀様がこう言いました。
「左様でございますね」
 お君は、この時に御支配のお面とお姿とをよくよくとながめました。馬は二人の方へ向いて駈けて来ました。その間はかなりありましたけれど、こちらは木の蔭に隠れていましたから、向うではわかりません。
「お嬢様、御支配様は大へんお綺麗なお方でございますね」
「ええ」
とお銀様はこのとき振返って、お君の顔を見た眼つきに悲しい色が浮びます。
「帰りましょう、失礼だから」
 自分が先に立ってさっさと家の方へ行ってしまいます。お君はぜひなくそのあとをついて行きました。
 お居間へ帰るとお銀様は、わざとしたような笑顔を作って、
「お君や、お前の髪の毛が少し乱れている、それをわたしが直して上げましょう」
と言い出しました。
「お嬢様、それは恐れ多いことでございます」
と言ってお君が辞退をしました。
「いいから、ここへお坐り」
 強《し》いて鏡台の前へお君を坐らせて、お銀様はその後ろへ廻りました。
 お銀様は少し乱れたお君の髪を撫でつけてやりました。そうして自分の差していた結構な簪《かんざし》や櫛《くし》を抜き取って、それをお君の頭に差してやりました。
 お君は、お銀様がなんでこんなことをなさるのかと変に思われてたまりません。
「お君や、お前、今日はわたしになってごらん、わたしと同じ髪を結って、わたしと同じ着物を着て、そうしてお前がこの家の娘になるといい」
「お嬢様、何をおっしゃいます、飛んでもないことを」
 お君は呆《あき》れていますと、
「わたしがお前になって、お前がわたしになった方がよい、ね、そうしてごらん、わたし、こんな髪の飾りも要《い》らない、こんな着物も要らない、帯も要らない」
「まあ、お嬢様」
 お君がいよいよ呆れた時に、外でムクの吠える声がしました。
 髪の飾りも要らない、着物も要らない、帯も要らないと言ったお銀様は、お君の呆れて言句《ごんく》も出でない間に、ついと次の間に行ってしまいました。
 お君はそれも気にかかるけれど、いま吠えたムクの声も気にかかります。障子をあけて見るとムクが、今しも馬に乗って馬場の外へ打たせて行く能登守の馬を追いかけて、その足許に絡《から》みつくようにして吠えています。
「まあ、あの犬が殿様に……失礼な」
 お君は驚きました。ムクを呼んで叱らなければならないと思いました。
「お嬢様、ムクが殿様に失礼をするといけませんから呼んで参ります」
と断わって、あわててそこを駈け出して、
「ムクや、ムクや」
 お君はやや遠くから呼びました。お君から呼ばれさえすれば、いくら遠くにいてもかえって来るムクがこの時は、いよいよ能登守の馬の足に絡みついて、遠くから見ていると馬と人とを襲うているように見えます。
 それを馬上の能登守がもてあましているようでしたから、お君は安からぬことに思うて息を切って、馬場から牧場の方へと枯草の原を駈けて行きました。
 そのうちに、駒井能登守はたまり兼ねて馬から下りてしまったようであります。或いはムクが烈しく襲いかかったために落馬をされたのではないかと、お君はいよいよ安からず思いました。
 馬から下りた能登守が、馬の口を取っていると、その時にムクも温和《おとな》しくなってしまいました。そこへ息を切ってお君が馳せつけて来て、
「ムク、まあどうしたのです、お殿様へ御無礼を申し上げて」
 お君は、せいせい言いながらムクを叱りました。駒井能登守は莞爾《かんじ》としてムクの頭を撫でながら、
「叱ってはいかぬ、こりゃ良い犬じゃ、この犬のおかげでわしは助かったのじゃ」
と言って駒井能登守は、一間ほど前のところの草の中を指さし、
「そこに古井戸がある、その古井戸へ、すんでのことに馬を乗りかけるところであった、それをこの犬が追いかけて来て留めてくれた、初めは狂犬かとも思うて、鞭《むち》で二つ三つ打ち据えたが、それでも退《ひ》かぬ故ようやく気がついた、この犬がいなければ、わしは馬もろともこの古井戸へ落ちて助からぬことであった、ああ危ないことであったわい」
と言って、能登守は汗を拭きました。
「まあ、左様でございましたか。ムクや、よくお殿様に危ないところをお教え申しました、お前はやっぱり良い犬でした」
 お君は駈け寄ってムクの首を抱きました。その時、能登守はお君とムクとを見比べていましたが、
「この犬は、お前の犬か」
「はい、わたくしの犬でございます」
「お前はここの家の……」
「雇人でござりまする」
 能登守は、お君とその犬との親身《しんみ》な有様をじっと見つめていました。伊太夫はじめ能登守のお伴《とも》の者が
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