も山とも見当のつけられないものがたった一人あるはずでございます、先生もひとつ、それをお考え下さいまし」
「左様な人は……今もつくづくとそれを考えて、考え抜いたけれど、左様な人は一人もないのじゃ」
「それがあるから不思議でございます」
「誰じゃ、言って見給え」
「それは先生、あの今度御新任になった御支配の駒井能登守でございます」
「ナニ、駒井能登守殿?」
 小林もさすがにその突飛《とっぴ》な推察に驚かされたようです。しかし、そう言われてみると、城内でしかるべき人として、海のものとも山のものとも知れないのは新任の駒井能登守一人だけです。これを突飛として見れば突飛だが、注意を以て観察すればその人が、一廉《ひとかど》の注意人物でない限りはありません。
「しかし先生、これには寸分も証拠とてはござりませぬ、先生なればこそ、斯様《かよう》なことを申し上げるので、余人へは冗談《じょうだん》にも申されたことではござりませぬ。それを確かめるために、私は今夜からひとつ、忍びを実地に稽古してみとうござりまするが如何《いかが》でござりましょう、先生の御意見は」
「なるほど」
「今夜ということに限らず、これから一心にあの駒井能登守殿の挙動をいちいち探査してみとうござりまする、いかがなもので」
「なるほど」
「そうしていよいよ、これはという動きの取れぬところを押えたら、相手が相手だけに妙ではございませんか」
「うむ、面白い」
 ここに至って小林師範役は膝を打ちました。岡村も喜んで、
「では先生も御賛成下さいますな」
「いかにも。やって見給え。しかし相手が相手だけに用心も一層じゃ」
 その後、岡村は道場へはあまり姿を見せないようになりました。その当時暫らくは辻斬の噂がありませんでした。岡村はまだなんとも報告を齎《もたら》さなかったけれど、こうして岡村が警戒するために、辻斬もそれを憚《はばか》って当分遠慮をしているのではないかと、小林師範役は心の中で岡村を頼もしがって、そのうち何か面白い報告を齎すだろうと楽しみにしていました。
 ところが、それから六日目の朝っぱら、小林師範役がまだ床を離れたばかりの時分に、あわただしく一人の門弟が、
「先生、先生、先生、大変でござりまする、大変」
 小林はその慌《あわただ》しさに驚かされました。
「先生、先生、また辻斬がございました、また辻斬が……斬られたのは岡村氏
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