は町の人の戦慄《せんりつ》であります。町の人の戦慄と共に、役向の責任でありました。そうしてこの小林文吾にとっては、まさに剣道の面目ということになりそうです。
「もし当地に住居《すまい》致す者にてこれだけの手腕《うで》のある人あらば、拙者に心当りのないはずはないが……しかしその見当がつかぬ。察するところ、他国の浪人がいずれにか隠れていて、夜な夜な狼藉《ろうぜき》を働くのではないかと思う」
「ともかくも、今夜より一層警戒を厳重に致さねばならぬ」
 小林文吾は自宅へ帰っていろいろと考え込んでしまいました。
 小林は小野派一刀流を本《もと》として田宮流の居合《いあい》、神道流の槍なども得意としている人であります。彼はこの斬り手がたしかに、城内にある勤番武士のうちの誰かであると見当をつけてしまっていました。城下及び領内にも腕の利《き》いた人がないことはない、百姓町人の間にさえ相当に出来る人を知っているけれども、それらの人にこんな荒っぽい芸当ができるものではない。その斬り方の酷烈なことを見ても、とうてい普通の人情を備えたものにはできない仕業《しわざ》である。さて城内の勤番武士の間にその人ありとすればそれは誰だろう。小林はその見当に思い惑《まど》うています。
 城内の勤番のなかに覚えのある者で、一応小林と手を合せない者はないはずであります。それであるのに見当がつかない。思い惑うているそこへ、
「先生」
と言って現われたのは、先刻、辻斬の立会に連れて行った岡村という高弟でありました。
「おお岡村氏」
「先刻は失礼を致しました」
「いや先刻は大儀でござった」
「先生、それにしても腹が立ちまするな」
 岡村は何か余憤があるらしく、
「先生、拙者の考えには、この辻斬はたしかに城内の勤番の武士のうちにあると、こう見当をつけましたが如何《いかが》でござりまする」
「それそれ、拙者もそう思っているが、その勤番のうちで、それでは誰と目星をつけ様がない、それで考えが行詰ってしまっている」
「左様、城内の侍ならば、先生と我々との間に大抵の品定めがきまるのでござりまする、それで拙者もいろいろと考えてみましたが、とうとう一つ考え当りました」
「それは誰じゃ」
「先生、意外な人でござりまするよ、それこそは」
「遠慮なく言って見給え」
「そんなら申してみましょう。しかし先生、城内で我々が、まだその腕前を海と
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