和物とも言わないで、肌のことから言い出したのは、大綱《たいこう》を述べないで細論にかかったようなものでありました。この老人も多少てこずったものと見えます。
ともかくも平野老人が、これだけの口を開いてみると、次には小林師範役がなんとか言わなければならない立場になりました。
「模様を一見したところでは、肌が立って地鉄《じがね》が弱いようにも見受けられる……が」
最後のが[#「が」に傍点]というところへ、最も多くの余地を残しておきました。
「左様」
平野老人は呑込んだように頷《うなず》きました。しかし何が左様だか列座の人には、あんまり呑込めないようであります。そこで老人は、
「その地鉄がなあ」
と附け足したけれども、地鉄がどうしたのだか、いよいよ呑込めなくなりました。これだけ言いかけたら、あとは小林師範役か誰かがバツを合せてくれるだろうと思っていたところが、小林はそれからなんとも言いませんでした。一座の者も黙っていましたから、老人は自身の言葉尻を持扱っていると列座の中から、
「則重《のりしげ》……則重……則重ではないか」
と吃《ども》りながらこう言った者がありました。これはそそっかしいので通った市川という御蔵《おくら》の係りでありました。まだ誰も剣呑《けんのん》がって国も言わなければ年代にも触《さわ》ってみないうちに、早くもその銘を言ってしまったところはなるほど、そそっかし屋であり正直者であることがわかります。
「以てのほか」
平野老人は首を振って肯《うけが》いませんでした。市川の言ったことを刎《は》ねつけることによって、自分がもてあました言葉尻が立て直りました。
「則重ではござらぬ」
平野老人は首《かぶり》を振ったから、そそっかし屋の市川は一時《いっとき》、面を赤くしましたけれど、老人があんまり手厳《てきび》しく刎《は》ねつけたものですから、反抗の気味となって、
「そ、そ、そんならば、そんならば、老人のおめききは……」
と言って反問しました。焦《せ》き込むと吃《ども》る癖があるから、いつもならばおかしいのであるけれど、誰も笑いませんで、かえって市川に同情するような心持で、老人の返答を相待っているような者さえあります。それは則重と見たものがこの市川一人ではなく、だいぶ同意見の者があるらしいのです。市川と同意見であるけれども、まだそうも言い出し兼ねている時に市川が
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