りませんよ、それだのにお前さんばかり、そんなお沙汰があったのだから、ほんとうに羨《うらや》ましいこと」
「あの、お嬢様はお気むずかしい方ではありませんか」
「いいえ、あれでなかなか察しがあって、よく行届くお方ですけれど、好きと嫌いが大変お強くていらっしゃる、このお屋敷でも、幸内さんのほかにはお嬢様のお気に入りといってはないのですよ」
「幸内さんは、そんなにお嬢様のお気に入りなんですか」
「ええ、幸内さんの言うことなら、お嬢様は大抵のことはお聞きなさいます、だから人が幸内さんとお嬢様とおかしいなんぞと蔭口を利きますけれど、まさかそんなことはありゃしませんよ」
 まだあけていた障子の間から外を見ると、笠をかぶって包みをかかえた幸内が、ちょうど、いつぞや入って来た時に、お嬢様と会った小橋の上を渡って行く後ろ影が見えました。

         三

 お君はお銀様の居間へ上りました。
「お前のお国はどこ」
「伊勢の国でございます」
「伊勢の国はどこ」
「古市でございます」
「古市と言やるは、あの大神宮のおありなさるところ?」
「左様でございます、大神宮様のお膝元《ひざもと》でございます」
「そこで何をしていました」
「あの……」
 お君がちょっと返事に困ったところへ、不意に庭先へ真黒な動物が現われました。それはムクでありました。
「ムクや、こんなところへ来てはいけません、ここはお前の来るところではありません」
と言ってお君は、お銀様の手前、ムクの無躾《ぶしつけ》なのを叱りました。
「これはお前の犬なの」
「はい、わたくしの犬なのでございます」
「まあ大きい犬」
「わたしのあとを少しも離れないので力になることもありますが、困ってしまうこともあるのでございます。さあ、早くあっちへ行っておいで」
「そんなに言わなくてもよい、主人のあとを追うのはあたりまえだからそうしてお置き」
「それでも、こんなところへ、失礼でございます」
「そうしてお置き」
 ムクは許されたともないのに庭先へ坐ってしまいました。
「温和《おとな》しくしておいで」
 お君もぜひなく、そのうえ追い立てることをしませんでした。
「このお菓子を食べさせておやり」
「こんな結構なお菓子を、勿体《もったい》のうございます」
 お君はそれを辞退しました。お銀様は別段に強《し》いるでもありません。
「今日は雨が降って淋しいか
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