した。
「お前、帰りがけに、あの娘のところへ行って、あの娘に、わたしのところへ遊びに来るように、と言っておくれ」
「はい、畏《かしこ》まりました」
 そう言って幸内は、長い桐の箱を小脇にして縁側を離れました。その桐の箱の中にはこのお嬢様の父なる人の、秘蔵の刀が入っているということが話の模様で推察されます。
 お君が女中部屋へ帰って針仕事をしている時分に、ポツリポツリと雨が降り出してきました。
「こんにちは」
 内にいたお君は、それが幸内の声であることを直ぐに覚《さと》りました。実はもう少し早く幸内がお嬢様の言伝《ことづて》を持って来るだろうと、心待ちにしていないわけでもありませんでした。
「どなた」
 それと知りつつもお君は障子をあけると、
「私」
「これは幸内さん、よくおいでなさいました」
 見ると幸内は、こざっぱりした袷《あわせ》に小紋の羽織を引っかけて傘をさして、小脇には例の風呂敷包の長い箱をかかえて、他行《よそゆき》のなり[#「なり」に傍点]をしていました。
「さあ、どうぞお入りなさいまし」
 お君は愛想よく迎えました。
「わしはこれから、ちと他《よそ》へ行かねばなりませぬ。あの、お君さん、お嬢様がお前さんに会いたいから、手がすいたら遊びに来るようにとお言伝《ことづて》でござんすよ」
「お嬢様から?」
「あい」
「畏まりました、有難うございます」
 お君は幸内のお使御苦労にお礼を言いましたが、幸内はそれだけの言伝をしておいてここを出かけて行きました。
 お君は暫らく幸内の行くあとを見送っていますと、
「お君さん」
 朋輩女中のお藤が後ろから呼びかけました。
「お藤さん」
 お君はそれを振返ると、お藤は、
「まあよかったことね、お君さん、お嬢様から招《よ》ばれてよかったことね」
「でも、わたし何かお叱りを受けるのじゃないか知ら」
「そんなことがありますものか、お嬢様はよくよくのお気に入りでないと、こっちから何か申し上げてもお返事もなさらないの、それをお嬢様の方からお招《よ》び出しがあるのだから、お君さん、お前はきっとお嬢様のお気に召したことがあるんだよ」
「そうだとよいけれど、わたしは何かお叱りを受けるんじゃないかと思って」
「そんなことはありませんよ、わたしたちはこうして永いこと御奉公をしているけれど、まだお嬢様から、遊びにおいでとお迎えを受けた者は一人もあ
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