ませんでした。
 この機会に少し牧場の状態でも見ておこうかと、お君はムクを尋ねながらに牧場の方へと歩んで行きました。
 今、お君の頭の中では、ムクのことよりも一層、あのお嬢様のことが考えられてたまりませんでした。お君は自分ほど不幸なものはこの世にないと思っていた一人でした。ほとんど幸福というものを持たずに生れて、不幸という浪の中にのみ揉《も》まれて来たのが自分のこれまでの生涯だと思いました。それを今、あのお嬢様と比べて見れば、自分の方が確かに幸福者《しあわせもの》であると言われて、なるほどそうかと思わねばならないことほど無惨《むざん》に感じたのであります。
 病気をしたことのない者には、壮健《たっしゃ》で無事でいることの有難味がわからない。ともかくも、人並に生れついたということの有難味が、この時お君にわかってきて、自分ほど不幸な者はこの世にないと思っていた心は、僻《ひが》みであったり我儘《わがまま》であったりしたのではないかとさえ思われました。百万長者の娘に生れたことが、この時にはお君にとって少しも羨望《せんぼう》ではありませんでした。そうしてこの気の毒なお嬢様の身の上に心の中で同情をしながら牧場を歩いて行くうちに、ついつい、お嬢様のお家のあるところだという欅《けやき》の林に近いところまで来てしまいました。もう冬と言ってもよいくらいですから欅の紅葉は、ほとんど八《やつ》ヶ岳颪《たけおろし》で吹き払われていました。木の下には黒くなった落葉が堆《うずたか》く落ちていました。そこへ来てお君は、ここがあのお嬢様のお家であると思って、そっと大きな欅の蔭から垣根の中をのぞいて見ました。
 そこにまた庭があって、池や泉水や築山《つきやま》があるのが見えました。そうして縁のところに一人の男の人が腰をかけている様子であります。
「幸内、幸内」
と座敷で呼ぶのは、あのお嬢様の声。呼ばれて、縁に腰をかけているのは、自分を助けて来てくれた若い馬商人。お嬢様の方の姿は座敷の中にいて見えませんけれど、幸内の姿は垣根越しによく見ることができました。
「幸内や、お前に貸して上げるには上げるけれど、お父様に話してはいけません」
「どう致しまして、旦那様のお耳に入りますれば、お嬢様よりは、わたしがどんなに叱られるか知れません」
「では大事に持っておいで。そうして三日たったらきっと返してくれるだろうね」
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