のだけれども、身体が弱っているから、心ならずもここに留まることになりました。
かくて駒井能登守の一行が黒野田を出ると、幾カ所の橋を渡り、追分を通って、いよいよ笹子峠へかかりました。
「これが笹子峠の矢立の杉」
中の茶屋を通って、矢立の杉の下で一行が立ち止まってその杉を見上げました。
「ははあ、矢立の杉というのはこれか」
と言って杉のまわりをまわり歩いている連中が、面白半分に手を合せてその杉の大きさを抱えてみました。
「ちょうど七抱《ななかか》え半ある」
「昔の歌に、武夫《もののふ》の手向《たむけ》の征箭《そや》も跡ふりて神寂《かみさ》び立てる杉の一もと、とあるのはこの杉だ」
「ナニ、なんと言われる、その歌をもう一度」
と言って、写生帖を持っていたのが念を押しました。
「武夫の手向の征箭も跡ふりて神寂び立てる杉の一もと」
「なるほど」
写生帖へその歌を書き込んで、
「読人《よみびと》は」
「読人知らず」
「年代はいつごろ」
「これも知らぬ」
「ははあ、よく歌だけを記憶しておられた、感心なこと」
と言って写生帖が感心すると、古歌の通《つう》が笑って、
「ここの石に刻《きざ》んである
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