お絹の動いたことにはまだ気がつかなかったけれど、上下で起るその人の声は早くも耳に入ると、必死の力でむっくり起き直って見ると、提灯《ちょうちん》の光が、いくつもいくつも黒野田の方から、谷川と崖路を伝うてこちらを差して来るのがわかります。
 上の方、矢立の杉のあたりからもまた火影《ほかげ》がチラチラ、してみると自分はもう取捲かれているのだ。がんりき[#「がんりき」に傍点]は遽《にわか》に立ち上ってよろめきながら、
「トテモ逃げられなけりゃ、ここで心中だ。生きて峠が越えられねえのだから、死んで三途《さんず》の川を渡るのも、乙《おつ》な因縁《いんねん》だろうじゃねえか。道行の相手に、まあこのくらいの女なら俺の身上《しんじょう》では大した不足もあるめえ。猿橋の裏を中ぶらりんで見せられたり、笹子峠から一足飛びに地獄の道行なんぞは、あんまり洒落《しゃれ》すぎて感心もしねえのだが、どうもこうなっちゃあ仕方がねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]がお絹の傍へ寄った時、
「な、何をするの」
 お絹は生きていました。自分の咽喉へかけようとしたがんりき[#「がんりき」に傍点]の手を、夢中で振り払うと、

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