お松が廊下を通った時に、廊下の縁の闇の中から、
「お松」
「はい」
 自分を呼んだのは、たしかに七兵衛の声です。
「お師匠さんはいるか」
「今、お風呂に……」
「風呂ではあるまい、風呂にはいないはずだ」
「ええ、今ちょっとどこへか……」
「それ見ろ」
 七兵衛から、それ見ろと言われてお松はギョッとしました。
「友さんを呼びましょう、御支配のお役人様もおいでなさいますから、お頼み申しましょうか」
 こういってあわてると、七兵衛はそれを押えて、
「米友にも役人にも知らせない方がいい、ナニ、百の野郎は痛み所で、身動きも碌《ろく》にできねえのだから、大したことになりはしめえ、俺がこれから一人で行って捉まえて来る、お前はこのまま座敷へ帰って静かにしているがいい、米友にもやっぱり黙っていた方がいいよ、あいつが下手《へた》に騒ぎ出すとまた事壊《ことこわ》しだ」
 七兵衛は、これだけのことを言い残して、闇の中へ消えて行きました。
 鎌のような月が相変らず笹子峠の七曲《ななまがり》のあたりにかかっている時に、黒野田の笹川の谷間から道のないところを無理に分け登って行くものがあります。肩に引っかけられ
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