「なに?」
 能登守は、お松の改まった様子を少しく気に留めた様子です。
「あの、お願いでござりまする」
とお松は、いよいよ改まった言葉でありました。
「願いとは?」
 能登守は鎌のような月を見ていた眼を、お松の方へ向けました。そうして雪洞《ぼんぼり》の光に照らされたお松の面《かお》に一生懸命の色が映っていることを認めて、これには仔細《しさい》があるだろうと感じました。
「あの、わたくしどもが甲府へ参りまするのは、冤《むじつ》の罪で牢屋につながれている人を助けに参るのでございます」
「人を助けに?」
「それ故、殿様のお力添えをお願い致したいのでございまする」
 お松は夢中になってここまで言ってしまいました。ここまで言ってしまえばともかくも安心と、ホッと息をつきました。
「果して冤《むじつ》の罪であるものならば、わしの力を借りるまでもなく罪は赦《ゆる》される。もし、まことに罪があるものならば、わしが力添えをしたとてどうにもなるものではない」
と能登守は、お松の願いの筋には深く触れないで、やや慰め面《がお》にこう言っただけでした。しかしお松はもう、一旦切り出した勇気がついたから、その頼みの綱
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