話をしてやりました。能登守はお松の親切を喜んで、打解けて見えます。
お松は言い出そう、言い出そうとしましたけれども、つい言い出しにくくなって、お願いがございますと咽喉まで出てそれが言えないで、自分ながら気がいらだつのみであります。
お松が能登守のために雪洞《ぼんぼり》を捧げて長い廊下を渡って行く時に、笹子峠の上へ鎌のような月がかかっているのが見えました。
能登守は静かに廊下を歩きながら、その月を振仰いで見ました。
「そなたは、江戸からこんなところへ来て淋しいとは思わないか」
と能登守はお松を顧《かえり》みてこう言ってくれました。その言葉があったために、さっきから一生懸命で、言い出そう言い出そうとしていたお松は一時に力を得て、
「いいえ、淋しいとは思いませぬ、少しも」
と言葉にも力を入れて返事をしました。
「それはえらい」
と言って、能登守は賞《ほ》めたけれど、お松の言葉よりは鎌のような月の方に見恍《みと》れているのでありました。
「殿様」
お松はここでせいいっぱいに殿様といって能登守を呼びかけましたけれど、自分ながらその言葉の顫《ふる》えていることに驚いたくらいでありました。
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