ばなるまいと思いました。好意を持ってくれた目上の人に対する礼儀という心から、そうせねばならないものかと思いました。

         六

 駒井能登守はこうしていても、毎日宿へ着くと、書類を調べたり手紙を認《したた》めたりすることでほとんど暇がありません。
 書類の多くは公用のもの、手紙は公用と私用とが相半《あいなかば》するくらいでありました。それらを一通り処理してしまったあとで、能登守が興味を以て書く手紙が一つありました。
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「今日は笹子峠の麓なる黒野田といふ処に泊り申候、明日笹子峠へかかる都合に御座候、これより峠を越えて峠向ふの駒飼《こまかひ》といふ処まで二里八丁の道に候、小仏峠と共に此の街道中での難所に候、笹子を越え候はば程なく勝沼にて、それより甲府までは一足に候、さすがに峡《かひ》と申すだけの事はありて、中々難渋な山道に候へども一同皆々元気にて、名所古蹟などを訪《とぶ》らひつつ物見遊山《ものみゆさん》のやうな心持にて旅をつづけ居り候、また人事にも面白き事多く、土地の名物や風俗などにも少しく変つた事|有之候《これありそろ》、言葉もまた江戸より入り候へば甲
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