に送られて、行先ではまた神尾あたりの、あんな悪感情に迎えられて甲府へ乗り込む若い支配の前途も多事でないことはありません。
その行列は存外|手軽《てがる》で、僅かに与力同心と小者の類《たぐい》と同勢十人足らずで、甲州街道を上って行きました。
甲府の城内へも、いつ出かけていつ到着するという沙汰なしに出かけましたから、出迎えの来るべき模様もありません。
駒井能登守は若くてそうして美男でありました。大森か川崎あたりまで遠乗りをするくらいの心持で、陣笠をかぶり馬乗袴を穿《は》いて、十人足らずの一行と共に駒木野《こまぎの》の関所へかかって来ました。
関所の役人も実は驚いたくらいで、今ごろ不意に勤番支配がおいでになろうとは思いませんでしたから、多少|狼狽《ろうばい》してこれを迎えました。能登守はその関所へ暫らく休息して、関所役人から附近のはなしなどを聞いていました。
その時ちょうど駕籠《かご》で乗りつけて来た一人の女が、駕籠から出て関所の前へ通りかかりました。
「これこれ、其方《そのほう》はどこへ行く」
関所役人が呼び止めますと、その女は、
「甲府の方へ参りまする、どうかお通し下さいまし」
「手形を持っておるか」
「はい、持って参りました」
女は鼻紙袋を出してその中から、一枚の厚い御手判紙《おてはんがみ》の畳んだのを役人の前に捧げますと、
「ええ、其方《そのほう》は女軽業の芸人を引連れ……かくと申す女であるな」
「左様でござりまする」
「このお手形には二十余人の一座と書いてあるが、その者共はどこにいる」
「それはあとから参りまする」
「待て待て、このお手形の日附が違う、エーと、其方は今より三月ほど前にこの関所を越えて甲府へ出たことがあるように覚えているが、これはその時の手形だな」
「ええ、その……」
「ならん、斯様《かよう》なものは用向の済み次第お上へ御返納申さねばならん、これを以てお関所を通ることは相成らん」
「では、そのお手形では通れないんでございますか」
「左様」
「それではお書換えを願いたいものでございます、急に甲府まで参らねばならないんでございますから」
「ばかなことを言うな、そう急に書換えなどができるものではない、江戸表へ立帰って相当の手続を踏んでお願い申せ」
「そんなことをしてはおられません、わたしの連合《つれあ》いが甲府にいて、急にわずらいついて、大へん危ないのでございますから、どうぞ、お通しなすって下さいまし、お手形は古うございますけれど、この通り少しも怪しいものではございませぬ」
「怪しい者であろうともなかろうとも、拙者はお関所を預かる役目、手形のない者は通すことならぬ」
「それではわたしが困ってしまいます、もし連合いにでも亡くなられてしまったら、わたしは死目《しにめ》に会えないじゃございませんか、助けると思ってお通し下さいまし」
「わからぬことを申すな、其方《そのほう》の事情がどうあろうとも、お上の御法を曲げるわけには相成らぬ」
「それでもせっかくお江戸からここまで来たものが、どうしてまたお江戸へ帰られましょう、ほんとにこうしている間も気がせくんでございますから、お通しなすって下さいまし、女一人ぐらい通して下すったっていいじゃありませんか、お目こぼしということもあるじゃございませんか、どうぞお頼み申しますよ」
この女は女軽業の頭《かしら》のお角でありました。お角は一生懸命に役人に頼み込んでみましたが、許さるべくもありません。
「くどい! この上かれこれ申すと処分致すぞ」
役人は言葉を荒くして叱りつけます。
「おや、これほどにお願い申すのに判らないお役人だこと」
「何を申す」
お角があまり強情だから、役人は立って抓《つま》み出そうとしました。
縁に腰をかけて見ていた駒井能登守が、
「これこれ松浦」
用人を呼びました。
「はい」
「あの女、血迷うているようじゃ、其方が行ってもと来た方へ追い返してやれ」
と言って、能登守は扇を持って指図をしました。能登守が元の方へ追い返してやれと扇で差し示した方向は、女がもと来た江戸の方ではなく、これから行こうという甲府の方でありました。
松浦はそれを心得たようにズカズカと女の傍へ来て、
「これ女、お関所の前で左様なことを申してはならぬ、早く立帰って出直して参るがよい」
と言って、女の手を取ってグングンと引張り出しました。
「これほどにお願い申してお聞き入れがなければそれまででございます、もし連合いが甲府で亡くなるようなことになれば、わたしは江戸へ帰って親類の者やなにかに面《かお》が会わされませんから、ここで死んでしまいます、お関所の前で死んでしまいます」
「さてさて女という者は聞入れのないものじゃ、死にたくば他へ行って勝手に死ね、お関所を汚《けが》すことは相成らぬ
前へ
次へ
全31ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング