大菩薩峠
駒井能登守の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)神尾主膳《かみおしゅぜん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大分|被《かぶ》りはじめたようだから
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)がんりき[#「がんりき」に傍点]
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一
甲府の神尾主膳《かみおしゅぜん》の邸へ来客があって或る夜の話、
「神尾殿、江戸からお客が見えるそうだがまだ到着しませぬか」
「女連《おんなづれ》のことだから、まだ四五日はかかるだろう」
「なにしろ有名な難路でござるから、上野原あたりまで迎えの者をやってはいかがでござるな」
「それには及ぶまい、関所の方へ会釈《えしゃく》のあるように話をしておいたから、まあ道中の心配はあるまいと思う」
「関所の役人が心得ていることなら大丈夫であろうが、貴殿御自身に迎えに行く心があったら、近いところまで行ってごらんになるもよろしかろうと思う」
「しからば、勝沼あたりまで行ってみようか知らん」
「勝沼までと言わず、いっそ笹子《ささご》を越えて猿橋《さるはし》あたりまで行ってみてはいかがでござるな」
「笹子を越えるのはチト億劫《おっくう》だが、しかしまだ天目山《てんもくざん》の古戦場を初め、あの辺には見ておきたいと思ってその機会《おり》を得ない名所がいくらもある、そう言われるとこの際、行って見たいような気持がする」
「行って見給え、江戸からのお客というのを途中で迎えて、それを案内してあの辺の名所を見物し、その帰りに塩山《えんざん》の湯にでも浸《つか》ってみるも一興であろう」
「左様、それではひとつ、気休めをして来ようかな」
「それがよかろう」
と語り合っている一人は神尾主膳で、一人は分部《わけべ》という組頭。この二人が別懇《べっこん》の間柄であることはこの会話でも知れます。この話をしているところへ、
「お客様、山口四郎右衛門様がおいでになりました」
「ナニ、山口殿が見えたと? それはちょうどよい、分部殿もおらるる、直ぐにこれへお通し申すがよい」
「畏《かしこ》まりました」
まもなく山口四郎右衛門というのが入って来ました。
「やあ、分部殿もおいでか。大分寒くなりましたな、山国である故、寒さの来ることも早いのはぜひもないが、それにしてもまだこんなはずはあるまい」
「左様、八ヶ岳にも雪が深いし、地蔵岳《じぞうだけ》も大分|被《かぶ》りはじめたようだから、それが風のかげんで甲府の空を冷たくするのであろう、なかなか寒い」
「まあ、ここへ来て温まり給え、寒さ凌《しの》ぎに一献《いっこん》参《まい》らせる」
「催促をしたようで恐れ入るな」
「拙者ひとりで寒さ凌ぎをやろうと思うていたところ、折よく分部殿がお見え、それにまた貴殿のおいでで甚だ嬉しい、ゆっくりと寛《くつろ》いで行ってくれ給え」
三人は飲んでようやく興が加わる時分に、山口四郎右衛門が何をか不平面《ふへいがお》に、
「御両所、近いうちに新しい勤番支配が来ることをお聞きなされたか、その風聞《うわさ》がたぶん御両所の耳にも入ったことと存ずる」
「ナニ、支配が来ると? しからば今まで欠けていた勤番支配の穴が埋まるのか、それは初耳じゃ、我々はトンと左様な噂《うわさ》は聞かぬ。して、いかなる人がどこから来るのじゃ」
神尾と分部とは、自分たちの上に立つべき勤番支配の一人が新しく任命されて来るという報告を、山口の口から耳新しく聞いて意外に感じました。単に意外に感ずるばかりではなく、不安と妬心《としん》とがきらめいて見えるのです。
「左様か、まだ御両所にはそのことをお聞き召されなんだか。しからばお話し申そう、このたびお役目を承って我々共の支配に来るのは、表二番町の駒井じゃ」
「ナニ駒井? 二番町の駒井能登《こまいのと》が来るのか、あの駒井が」
神尾主膳は他人事《ひとごと》でないような思い入れで、いそがわしくまばたきをしました。
「いかにもその駒井能登守」
「左様か、駒井が来るのか」
神尾は絶望して、取って投げるような返答ぶりでした。
「太田筑前殿は老巧者《ろうこうもの》だ、我等が上にいただいても敢《あえ》て不足はないが、駒井は何者だ、あれは我々よりズット年下、しかも知行高《ちぎょうだか》も格式も以前は我々に劣《おと》ること数等、若い時は眼中に置かなかったものじゃ。今となってあれに先《せん》を越されて剰《あまつさ》え、我々が支配として頭に頂かねばならぬとは情けない。ああ、そう聞いては酒がうまくない、世の中が面白くないわい」
「それは我々も同じこと。なるほど、駒井は学問は多少あるにはあるだろう、我々が道楽をして遊んでいた時分に、あいつは青い面《かお》をして書物と首っ引きをしてい
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