て、真白なお絹の面と肌とが活きて動くように見え出した時、がんりき[#「がんりき」に傍点]はどこかで大木の唸《うな》るような音を聞きました。
 猫が鼠を捕った時は、暫らくそれをおもちゃにしているように、自分でそこへ抛り出したお絹の面《かお》を見ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は物狂わしい心持で、
「こうしちゃいられねえんだ」
 再びお絹を背負い上げて登りはじめようとしたが、この時はがんりき[#「がんりき」に傍点]の身体もほとんど疲労困憊《ひろうこんぱい》の極に達して、自分一人でさえ自分の身が持ち切れなくなってしまいました。この女を荷《にな》ってこの崖路《がけみち》を登ることはおろか、立って見つめているうちに、眼がクラクラとして、足がフラフラとして、どうにも持ち切れなくなったから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はお絹の傍へ打倒れるようにして、烈しい吐息《といき》を、はっはっとつきながら峠の上を仰いで、
「矢立《やたて》の杉が唸《うな》っていやがる、矢立の杉が唸ると山に碌《ろく》なことはねえんだ。せめて、あの杉のところまで行きたかったんだが、この分じゃあもう一足も歩けねえ、といってこれから下へも降りられねえ、自分ながら自分の身体が始末にいけねえんだからじれってえな。うまくせしめるにはせしめたけれど、これだけじゃあ何にもならねえや。俺の腕はこんなもんだということを、七の兄貴にも見せてやりてえし、粂の親分にも見せてやりてえんだ。それからまた、勤番の御支配とやらが泊っている本陣から盗み出したといえば、ずいぶん幅が利かねえものでもねえ、これからこの女を連れて一足先に駒飼《こまかい》まで行って、そこで、どんなものだとみんなの面を見てやりゃあ、後はどうなったって虫がいらあ。峠を越してしまわねえうちは、こっちのもんでこっちのものでねえようなものだから、なんとかして漕《こ》ぎつけてえんだが、身体が利かねえから仕方がねえ。ああ、ほんとに弱った、死んでしめえそうだわい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はついにそこへ、へたばって動けなくなりました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が動けなくなった時分に、お絹が少しく動き出してきました。お絹が少し動き出した時分に、下の方で喧《やか》ましい人の声、上の方でもまた人の声。
 昏倒《こんとう》しかけたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
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