州特有の言葉ありて面白く覚え候、昨日はまた甲州|名代《なだい》の猿橋といふのを通り申候、これは名所絵などにて御身も御承知の事と存じ候へ共、猿が双方より手を延ばしたるやうの形にて、土地の人は橋より水際まで三十三|尋《ひろ》、水際より水底まで三十三尋も有之候様に申し居り候処、その間に一本の柱も無く組立て候事が奇妙に御座候、甲州は評判の如く荒き処あり、途中も心して見聞致し居り候。
さて御身の御病気は如何に候や、われら斯《か》くの如き愉快なる旅をつづけ居り候うちにも常に心にかかり候はこの事のみに候、追々寒さにも向ひ候べく、一しほお厭《いと》ひなさるべく候、昨日受取り申候たよりによれば少しく快方との事、やや安心は致し候へども、甲府入りを致したしとは以ての外に候、少々快方に向ひたればとて心に弛《ゆる》みを生じてはならず候、再三申し候通り此の道は男子も憚る険道、それを女の身にて、殊に病中の身にて旅立たんなどとは想ひも及ばぬ事に候、左様の心を起さず当分は御静養専一に可被成候《なさるべくそろ》、冬を越して来春身体と共に陽気の回復する頃を待ちて御入国なされ候へ。
今日も女連の二人の者同じく江戸より出でて甲府へ赴く由にて此の宿へ着き申候、御身が甲府入りを致したしとの書状と思ひ合せてをかしく存じ候、右の婦人達もたえず駕籠乗物に揺られ、人気の険しさに胆《きも》を冷し随分難渋のやうに見受けられ笑止に存候」
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駒井能登守には奥方があるのでした。それはこの手紙によっても察することができるようにかなり重い病気、かなり永い患《わずら》いにかかって江戸に残されているのです。その奥方に宛てて能登守が毎日のように手紙を書いては送り、奥方からもまたこの道中の都度都度《つどつど》に音信のあることがわかります。能登守も若いから奥方も若いに違いない。能登守も綺麗な人だから奥方も美しい人に相違ない。若くて美しい二人は結婚して、そんなに長い間でないこともわかっています。新婚の若い男と女、たとえお役目柄の厳《いか》めしい能登守にも情愛がなければならぬはずであります。ましてや奥方にはそれに一層の深い情愛がなければならぬはずであります。重い病気と、永い患いとが二人の中を隔てました。その隔てはこうして毎日のように書いているおたがいの消息によって、美しく結ばれているということが想像されるのであります
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