ら、そんな心持を起してお絹は自分の部屋へ帰って来て、
「お松や」
「はい」
お松は静粛《しとやか》に返事をしました。
「お前は後程お茶を立てて駒井の殿様に差上げておいでなさい、それから、まだお風呂がお済みにならぬ御様子だから、お前は殿様のお伴《とも》を申し上げてお風呂のお世話を申し上げねばなりませぬ。こんな山家《やまが》のことで、気の利いた女中はいないし、ああして殿方が女気なしの旅をしておいでなさるのは、何かにつけて御不自由でいらっしゃるし、こうして今夜も私たちが安心して宿へ着くことのできたは、みんなあの殿様のおかげ、それにあのお方は甲府の勤番支配といって、うちの殿様よりはズット上席のお方、神尾の殿様はあれだけのお方だけれど、この駒井の殿様はこれからお大名になるか御老中になるか、出世の知れないお方」
お絹は、こう言ってお松を説きました。お松はいちいちそれを聞いていましたけれど本意でないことがいくらもあります。自分の甲府へ行こうというのは、神尾の殿様だとか、駒井の御支配様だとかいうお方のお気に入られようと思って来たはずではないけれど、ともかくもこの場合、一通りの御用と御挨拶はつとめねばなるまいと思いました。好意を持ってくれた目上の人に対する礼儀という心から、そうせねばならないものかと思いました。
六
駒井能登守はこうしていても、毎日宿へ着くと、書類を調べたり手紙を認《したた》めたりすることでほとんど暇がありません。
書類の多くは公用のもの、手紙は公用と私用とが相半《あいなかば》するくらいでありました。それらを一通り処理してしまったあとで、能登守が興味を以て書く手紙が一つありました。
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「今日は笹子峠の麓なる黒野田といふ処に泊り申候、明日笹子峠へかかる都合に御座候、これより峠を越えて峠向ふの駒飼《こまかひ》といふ処まで二里八丁の道に候、小仏峠と共に此の街道中での難所に候、笹子を越え候はば程なく勝沼にて、それより甲府までは一足に候、さすがに峡《かひ》と申すだけの事はありて、中々難渋な山道に候へども一同皆々元気にて、名所古蹟などを訪《とぶ》らひつつ物見遊山《ものみゆさん》のやうな心持にて旅をつづけ居り候、また人事にも面白き事多く、土地の名物や風俗などにも少しく変つた事|有之候《これありそろ》、言葉もまた江戸より入り候へば甲
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